商 瑭(しようとう、生没年不詳)は、モンゴル帝国大元ウルス)に仕えた漢人官僚の一人。クビライに仕え京兆地方の経営に尽力した商挺の息子の一人。

概要 編集

商瑭はモンゴルに仕えるとまず右衛屯田千戸とされたが、病により32歳にして職を辞した。その後郷里に戻ると、晦道堂と名付けた施設を築いたが、これは北宋仁宗に仕えて太子中舍人となった7世祖の商弼にあやかったものであった[1]

脚注 編集

  1. ^ 『元史』巻159列伝第46商瑭伝,「瑭字礼符。仕為右衛屯田千戸。歳餘、謝病侍親、時年纔三十二。後還郷里、築室曰晦道堂、蓋取七世祖宗弼、宋仁宗時為太子中舍人、年五十掛冠所築堂名也」

参考文献 編集

  • 元史』巻159列伝第46商瑭伝
  • 新元史』巻158列伝第55商瑭伝
  • 松田孝一「元朝期の分封制 : 安西王の事例を中心として」『史學雜誌』88号、1979年
  • 藤野彪/牧野修二編『元朝史論集』汲古書院、2012年