坂田 稔(さかた みのる、1902年 - 1974年)は、日本の写真家。元石巻専修大学学長坂田隆の父。

さかた みのる

坂田 稔
生誕 1902年
日本の旗 日本愛知県碧海郡富士松村大字逢見字一里山
死没 1974年
日本の旗 日本愛知県名古屋市千種区池下町
職業 写真家
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経歴 編集

  • 1902年11月14日 愛知県碧海郡富士松村大字逢見字一里山生まれ。
  • 1919年 愛知県立岡崎中学校を卒業。三竜社(岡崎市)に勤務。
  • 1920年 三竜社満州モンゴル出張所へ絹糸買い付けのため出張。
  • 1922年-1924年 豊橋歩兵第18連隊第2中隊に入隊。
  • 1926年 毎日新聞社大阪本社に勤務。大阪市西成区粉浜中の町(現・住之江区粉浜)に居住。浪華写真倶楽部に参加する。
  • 1932年-1933年 結核のため愛知県伊良湖に転地療養
  • 1934年 名古屋市昭和区曙町に転居。カメラ・写真材料店「コダック」を経営。写真のグループ「なごやふぉとぐるっぺ」を結成。井川ダム用地の航空測量のための空中写真撮影を行い、はじめてスピードグラフィックを使用する。
  • 1937年 「なごやふぉとぐるっぺ」を「ナゴヤフォトアバンガルド倶楽部」と改称。主要メンバーは坂田稔ほか山中散生山本悍右下郷羊雄、田島二男ら。「写真雑誌月例懸賞作家論」(カメラ)、「フォトアブストラクシオンと フォトシュルレアリズム」(写真月報)を発表。
  • 1938年 自由美術家協会展に長谷川三郎と共同で出品。「前衛写真作品の技術的な解説」(フォトグラフ)を発表。
  • 1939年 第3会自由美術家協会展に「球体について」を出品。9月「海外版写真週報」のために木曽駒を撮影。「ナゴヤフォトアバンガルド倶楽部」を「名古屋写真文化協会」と改称。九州の「ソシエテ・イルフ」での講演を始める。「作画技法棚卸し帳」(フォトタイムス)、「大陸への写真製作」(フォトタイムス)、「展覧会作品審査考」(フォトタイムス)、「前衛写真再検討座談会」(カメラマン)を発表。
  • 1940年 シュール・レアリスム派の「美術文化協会」の座談会に出席。日本報道写真家協会東海支部長に就任。「写真を推進する人々」(フォトタイムス)を発表。
  • 1941年 作品集『造型写真』(アルス写真文庫)を刊行。美術創作家協会名古屋展に出品。「写真の文化的使命」(写真文化)、「座談会『新しき写真界の進路』再検討」(写真文化)、「中華民国写真界の現状」(写真文化)を発表。11月に陸軍報道班員として徴用。
  • 1942年 3月から奏任官待遇佐官扱い陸軍嘱託として大宅壮一武田麟太郎横山隆一らとともにジャワ派遣。おもにジャカルタ、スラバヤ、ボゴール、バンドンの情報収集活動に従事。この間にジャカルタで化学理論の個人教育を受ける。陸軍第3飛行旅団の委嘱により、微粒子現像の指導、紫外線引伸し機・日光焼付機の考案などを行う。「アップリケ―更生手芸・綴れ縫」を可知志叙と共著で出版。
  • 1945年 6月に西部軍報道部に転じる。終戦後はごく短期間東京裁判通訳をしたが、その後は光化学関係の特許を取得し、各社の技術顧問をして暮らしを立てた。
  • 1968年 「写真100年―日本人による写真表現の歴史展」に出品。
  • 1971年 日本写真家協会編「日本写真誌1840-1945」(平凡社)に「無題(球体)」(1940年)と「門入村」(1941年)が収録される。
  • 1974年4月5日 名古屋市千種区池下町にて病死。
  • 1986年 「日本写真全集」(小学館)第3巻「近代写真の群像」に「危機」(1938年)など5点が収録される。池袋西武百貨店での「フォト・アヴァンギャルド イタリアと日本」展に「球体について」(1939年)など4点を出品。
  • 1988年 「造形写真1934-1941 坂田稔作品集」(あるむ)刊行。

主要展覧会 編集

  • 名古屋のフォト・アヴァンギャルド/名古屋市美術館/1989年

脚注 編集

関連項目 編集