多田 昌綱(ただ まさつな)は、戦国時代から江戸時代にかけての武将。祖父は甲斐武田家に仕え武田の5名臣に含まれる多田三八郎(満頼と言われていた武将)。

 
多田 昌綱
時代 戦国時代 - 安土桃山時代 - 江戸時代前期
生誕 永禄10年(1567年
死没 慶長10年(1605年
別名 三八郎、法三
主君 武田勝頼徳川家康徳川秀忠
氏族 多田氏
父母 多田昌俊
多田昌繁
特記
事項
多田三八郎の孫
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略歴 編集

昌綱は大伯父にあたる土屋昌続(昌次)に養育された。織田信長武田征伐による武田氏の滅亡後は徳川氏に仕え、各地の合戦に従軍した。天正12年(1584年)、小牧・長久手の戦いに従軍し、天正19年(1591年)に九戸政実の乱に従軍した。慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いの際は徳川秀忠率いる東山道軍に参加し、第二次上田合戦に加わった。

慶長6年(1601年)に徳川義直の守役の一人に任ぜられた。子孫は徳川氏の旗本となった。

一族 編集

多田一族は武田氏に従い、およその一族は天正3年(1575年)の長篠の戦い天正10年(1582年)の天目山の戦いにて戦死したとされている。『寛永諸家系図伝』『甲陽軍鑑』『甲斐国志』に拠れば、多田昌治(昌春、三八郎の長男)と子の新蔵昌勝は長篠で戦死した。昌治の次男の久蔵昌綱は叔父の昌俊(三八郎の三男)の養子となっていたが、一族の角助昌繁らと田野で戦死したとされている。

多田昌俊に関しては、武田家を出奔して相模国後北条氏に仕え、永禄10年(1567年)12月に武蔵国岩槻(埼玉県さいたま市岩槻区)で戦死した[1]とも、武田家滅亡に伴い殉死した[2]ともされている。

昌綱の子孫に幕末の幕臣山岡鉄舟がいる。[3]

脚注 編集

  1. ^ 平山(2008)、p.330
  2. ^ 平山(2008)、p.329
  3. ^ 多田昌澄 - 多田昌俊 - 多田昌綱 - 多田昌繁 - 多田昌興 - 中根憲正 - 小野高儔 - 青木信孝 - 小野高達 - 小野高福 - 山岡鉄舟

参考文献 編集