大和長岡

奈良時代の貴族・明法家

大和 長岡(やまと の ながおか)は、奈良時代貴族明法家。初名は小東人忌寸のち宿禰官位正四位下大和国造

 
大和 長岡
大倭宿禰長岡/菊池容斎前賢故実』より
時代 奈良時代
生誕 持統天皇3年(689年
死没 神護景雲3年10月29日769年12月1日
改名 小東人(初名)→長岡
官位 正四位下大和国造
主君 元正天皇聖武天皇孝謙天皇淳仁天皇称徳天皇
氏族 大倭忌寸宿禰倭国造
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経歴 編集

若い頃から刑名の学を好み、文章作成を得意とした[1]霊亀2年(716年遣唐使に請益生として随行し入する。それまで疑問とされていた事項について在唐中に多く解明したとされ、帰国後は法律を論じる者は長岡に付き従い教えを請うたという。養老6年(722年)『養老令』撰定の功労により功田4町を与えられた(この時の位階は従六位上)。

天平9年(737年)神の宣託があったとして、一族の水守と共に宿禰姓を賜与され、他の同族は姓に改姓した。また同時に正六位上から従五位下に昇叙の上、20疋を与えされた。天平10年(738年刑部少輔に任ぜられる。天平13年(741年藤原広嗣の乱に連座して流罪となるが、のち赦されたらしく、天平16年(744年西海道巡察使次官、天平18年(746年摂津亮を経て、天平19年(747年)には従五位下に叙せられている。

孝謙朝から淳仁朝にかけて、天平勝宝2年(750年)従五位上、天平勝宝3年(751年正五位下、天平勝宝9歳(757年)正五位上、天平宝字7年(763年従四位下と順調に昇進し、駿河守紫微大忠民部大輔左京大夫河内守を務める。しかし、地方官としては政治に仁恵がなく、部下の官人や人民はこれを患えたという[1]。天平宝字8年(764年)右京大夫に任ぜられるが、老齢のため致仕。

神護景雲2年(768年)賀正の宴において称徳天皇により特に昇殿を許されるが、鬢髪は豊かで所作も作法を違わなかったことから、天皇に年齢を問われ、80歳になったと答えると、天皇は久しく感嘆して自ら位記を書き正四位下に昇叙した。翌神護景雲3年(769年)10月29日卒去。享年81。最終官位は大和国造正四位下。

神護景雲3年(769年)制定され、延暦10年(791年)施行された刪定律令24条の撰者の一人として、吉備真備と共にその名が挙がっている。

官歴 編集

続日本紀』による。

脚注 編集

  1. ^ a b 続日本紀』神護景雲3年10月29日条

参考文献 編集

  • 宇治谷孟『続日本紀 (上)』講談社講談社学術文庫〉、1992年
  • 宇治谷孟『続日本紀 (中)』講談社〈講談社学術文庫〉、1992年
  • 宇治谷孟『続日本紀 (下)』講談社〈講談社学術文庫〉、1995年