大多和 與四郎(おおたわ よしろう、1880年明治13年) - 1938年昭和13年))は、伝染性紅斑(通称:リンゴ病)を日本で初めて発見したとして知られる千葉県白子町(旧 関村)の医学者

大多和與四郎

相模国三浦一族の流れをくむ大多和忠右衛門(旧関村初代村長)の四男。関小学校、旧制千葉中学校旧制第七高等学校九州帝国大学医学部(旧 京都帝国大学福岡医科大学)を卒業し、同大学附属病院で内科医小児科医として勤務した。

1912年(大正元年)に、当時小学校低学年の子供に流行していた頬が赤くなる奇病「りんごほっぺ病(伝染性紅斑)」はウイルス性疾患であることを日本で初めて発見し、医学雑誌(第5病の2例. 児科雑誌, 149: 721-730, 1912)に報告した。

1914年(大正3年)、高等学校時代を過ごした鹿児島市桜島大噴火に身舞われたため、同窓の内田孝蔵、諸岡存、飯島博と共に同地を訪問し救護に当たった。

1915年(大正4年)、関村に大多和医院を開設。

1937年(昭和12年)に、大正3年当時を述懐した「大正三年桜島噴火探検二十五週年追憶記」を出版した。

参考文献 編集

関連人物 編集