大隈信常

日本の教育者、政治家

大隈 信常(おおくま のぶつね、1871年9月30日明治4年8月16日) - 1947年昭和22年)1月11日)は、明治から昭和(戦後初期)にかけての日本教育者政治家実業家華族侯爵)である。衆議院議員貴族院議員、大日本東京野球倶楽部代表取締役会長(初代)、日本職業野球連盟総裁(初代)などを歴任した。また、早稲田大学名誉総長などの名誉職も務めた。大隈重信の養嗣子である。

大隈 信常
おおくま のぶつね
生年月日 1871年9月30日
(旧暦明治4年8月16日
出生地 日本の旗 日本平戸県平戸
(現・長崎県平戸市)
没年月日 (1947-01-11) 1947年1月11日(75歳没)
出身校 東京帝国大学法科大学卒業
(現・東京大学法学部
前職 内閣総理大臣秘書官
現職 大日本東京野球倶楽部会長
所属政党大隈伯後援会→)
無所属団→)
公友倶楽部→)
(無所属→)
火曜会
称号 正三位
帝都復興記念章
正四位
勲四等旭日小綬章
二等嘉禾章
正五位
法学士(東京帝国大学・1899年
配偶者 大隈光子
親族 父・松浦詮(貴族院議員)
養父・大隈重信(内閣総理大臣)
兄・松浦厚(貴族院議員)
兄・佐竹義準(貴族院議員)
弟・井上勝純(貴族院議員)
長男・大隈信幸(参議院議員)

在任期間 1922年1月30日 - 1947年1月11日

選挙区 群馬県前橋市選挙区
当選回数 1回
在任期間 1915年3月26日 - 1917年1月25日
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経歴 編集

平戸県平戸(現:長崎県平戸市)の出身。実父は旧平戸藩松浦詮[1]、旧名は松浦常(まもる)である[2]

1899年明治32年)東京帝国大学法科大学を卒業後、三井物産に入社する。1902年(明治35年)に大隈重信の養女・光子の婿となり、養子となる。光子は大隈の妻の兄の三女とされていたが、実際には重信が女中に産ませた子である[3]

早稲田大学教授・早稲田中学校長を歴任する。就任時に生徒であった権田保之助はのちに、紳士然とした前校長の大隈英麿とは正反対で、信常は学校に軽装の着物で現れ、酒の臭いのすることもあり、絶望したと書いている[4]

第2次大隈内閣成立後首相秘書官となり、1915年大正4年)の第12回衆議院議員総選挙大隈伯後援会の一員として群馬県第1区(前橋市区)から立候補し、立憲政友会の前職竹越與三郎を破って当選した。

1922年(大正11年)、重信の死に伴い爵位を継承して貴族院議員となる。翌年、早稲田大学名誉総長に就任した。また、重信が設立した日印協会の第4代会長を務めている。

1934年昭和9年)、創立したばかりのプロ野球球団・大日本東京野球倶楽部(会社としては後のよみうり。球団としては現在の読売ジャイアンツ)の代表取締役会長に就任する。1936年(昭和11年)には日本職業野球連盟の発足に伴い、初代総裁に就任した。

栄典 編集

位階
勲章等
外国勲章佩用允許

家族・親族 編集

松浦家 編集

大隈家 編集

著書 編集

脚注 編集

  1. ^ 信常は廃藩置県が行われた直後に生まれている。
  2. ^ 大隈邸の結婚披露、明治33年10月11日『新聞集成明治編年史』第11巻(林泉社、1940年)
  3. ^ 伊藤之雄大隈重信(下)「巨人」が築いたもの』中央公論新社、2019年。ISBN 978-4-12-102551-7http://www.chuko.co.jp/shinsho/2019/07/102551.html 、57-58p
  4. ^ 『地上之理想国瑞西』昭和22
  5. ^ 『官報』第8398号「叙任及辞令」1911年6月21日。
  6. ^ 『官報』第2072号「叙任及辞令」1919年7月2日。
  7. ^ 『官報』第4005号「叙任及辞令」1925年12月29日。
  8. ^ 『官報』第3633号「叙任及辞令」1939年2月16日。
  9. ^ 『官報』第1038号「叙任及辞令」1916年1月20日。
  10. ^ 『官報』第1499号・付録「辞令二」1931年12月28日。
  11. ^ 『官報』第996号「叙任及辞令」1915年11月26日。

関連項目 編集

外部リンク 編集

爵位
先代
大隈重信
侯爵
大隈家第2代
1922年 - 1947年
次代
大隈信幸