富樫宜資

日本のフルコンタクト空手家、日本空手道無門会の創設者

富樫 宜資(とがし よしもと、1950年6月1日 - )は、日本空手家日本空手道無門会の創設者・代表(宗主会長)で段位は十段。山形県酒田市常禅寺出身[1]亜細亜大学出身[2]

来歴 編集

高校時代からキックボクシングに興味を抱き、大学入学後、空手を稽古し始める[1]

1970年には10日間の山篭り修行をおこなう[1]。同年の第2回オープントーナメント全日本空手道選手権大会白帯でエントリーした。2回戦で西田幸夫と対戦するが判定負け[1]1971年の第3回全日本選手権では3回戦で佐藤勝昭に敗北[1][3][4]。対戦した佐藤勝昭は試合内容を富樫の前額部に跳び膝蹴りをヒットさせ、大差の判定で勝利したと述べている[3]

1973年の6月から9月中旬まで奥多摩で100日間の山篭りを行い、空手の稽古に励んだ[5]。同年に出場した第5回全日本選手権では岸信行を破り、ベスト4進出をかけて佐藤俊和[注釈 1]と対戦し、延長戦で3対1の判定で負け、5位に入賞した[6]。無門会総本部-旧デザインサイトによれば、他流派参加者による上位入賞は大会史上初の快挙であったというが[5]極真会館の公式記録では、1969年の第1回オープントーナメント全日本空手道選手権大会にて韓武舘の朴邦治が4位で利川重男が6位[7]ボクサーのポール・ジャクソンが5位と、既に他流派や異種格闘技の選手が上位入賞を果たしている[8]

この時の富樫を梶原一騎原作の劇画空手バカ一代』で取り上げ、第5回全日本選手権に出場した様が描かれている[9]。しかし試合結果以外は創作された内容となっている[注釈 2]

同年12月、武道空手道研究会『日本空手道無門会』を発足し代表に就任した[10]

「受即攻」と呼ばれる、無門会独自の技を開発している[10]

著書 編集

  • 『富樫宜資自伝 - 極限の空手道』(福昌堂刊)書籍情報: ISBN 9784892246012

参考文献 編集

脚注 編集

注釈
  1. ^ 極真会館秋田支部所属で、第3回オープントーナメント全日本空手道選手権大会に初出場[6]。第4・5回全日本選手権は共に3位、第6回全日本選手権5位、第1回オープントーナメント全世界空手道選手権大会5位とそれぞれ入賞し、第8回全日本選手権で念願の初優勝を遂げた[6]正拳突き前蹴り回し蹴りを得意とし、その戦いぶりから闘将と呼ばれた[6]。第2回全世界選手権に推薦枠で出場し、5回戦でウィリー・ウィリアムスと対戦し、延長戦でウィリーの正拳突きと下突きの連打で一本負けをし、引退[6]新極真会の秋田本庄道場の師範
  2. ^ 劇画では同選手権の第5回大会が初出場[9]大山倍達と同じ山篭り先[9]、長髪の外見や名前は「宣資(のぶすけ)」と描かれ[9]佐藤俊和との対戦後に梶原一騎が控室に富樫を訪れ取材したことになってるが[9]、『富樫宜資自伝 - 極限の空手道』では梶原とは挨拶しかしておらず、極真関係者では山崎照朝のみと技術を論じ合ったと記されている。
出典
  1. ^ a b c d e 富樫宜資と無門会空手の歴史 1950-1972”. 無門会総本部-旧デザインサイト. 2014年6月26日閲覧。
  2. ^ 富樫宜資とは”. 無門会公式サイト. 2014年6月26日閲覧。
  3. ^ a b 佐藤勝昭 『王道の空手』 講談社1987年(昭和62年)、229-231頁。
  4. ^ 拳の眼”. 極真会館主催 第3回全日本大会プログラム (1971年). 2014年8月9日閲覧。
  5. ^ a b 富樫宜資と無門会空手の歴史 1973”. 無門会総本部-旧デザインサイト. 2014年6月26日閲覧。
  6. ^ a b c d e 「時のヒーロー◆名勝負再現-⑦佐藤俊和四段」『月刊パワー空手』 パワー空手出版社、8月号、1985年、16頁。
  7. ^ 「Long Interview 大石代悟」『月刊フルコンタクトKARATE』第238巻第321号、福昌堂、2006年12月1日、59頁。 
  8. ^ 第1回全日本空手道選手権大会(1969年9月20日=東京体育館)”. 公式記録. 極真会館. 2014年8月8日時点のオリジナルよりアーカイブ。2014年8月8日閲覧。
  9. ^ a b c d e 空手バカ一代』 KCコミック第27、28巻、講談社
  10. ^ a b 日本空手道無門会の永遠の伝説の歴史”. 無門会公式サイト. 2014年6月26日閲覧。

外部リンク 編集