小山田 宗徳(おやまだ むねのり、1927年12月14日 - 1986年5月13日[1][3]は、日本俳優声優である。福島県石川郡石川町出身[1]で、東京府立第六中学校[2][4] を経て東京高等学校 (旧制)1948年に卒業[1]した。

おやまだ むねのり
小山田 宗徳
生年月日 (1927-12-14) 1927年12月14日
没年月日 (1986-05-13) 1986年5月13日(58歳没)
出生地 日本の旗 日本福島県石川郡石川町[1]
ジャンル 俳優声優歌手
活動期間 1950年代 - 1977年[2]
活動内容 映画テレビドラマ舞台
配偶者 日夏悠理(元宝塚歌劇団
主な作品
映画
さらばラバウル
アテレコ
プリズナーNo.6
ヘンリー・フォンダ各種吹き替え
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略歴 編集

1951年俳優座養成所へ三期生として入所し、1954年に卒業[2]した。同期に穂積隆信渡辺美佐子らがいた。1960年小沢昭一らと7人で「劇団俳優小劇場[脚注 1]を旗揚げ、小劇場活動で先駆的役割を務めた。1961年に、水谷八重子に招かれて「女の勲章」で新派の舞台に立った[2]

舞台公演の傍ら1950年代後半からテレビドラマにも活躍の場を広げ、「今日を生きる」「白い南風」などのいわゆる『よろめきドラマ』に出演すると、誠実で落ち着いた雰囲気と風貌が主婦層に高く人気を得た[2][5]1962年に、主題歌の歌唱も担当した『地方記者』『続 地方記者』(日本テレビ)に主演すると、男性からも支持を得て茶の間の人気者となる[2][6]

多数のテレビドラマ出演だけでなくラジオドラマナレーション吹き替えなど声の仕事も多い。龍角散テレビコマーシャルナレーションや、ウォルト・ディズニーヘンリー・フォンダラリー・ハグマンなどの日本語版吹き替えを担当し、ヘンリー・フォンダの吹き替えは持ち役となった。1976年にテレビ放送された映画『エスピオナージ』がフォンダの吹き替えを担当した最後である。テレビドラマ『スパイ大作戦』のオープニングで「……頭脳と体力の限りを尽くしこれを遂行する」のナレーションも人気となった。

元来の高血圧と過労が影響して1968年脳溢血で倒れたが回復。1969年[7]宝塚歌劇団OGの日夏悠理と見合い結婚[2]2月5日にお見合い、5月3日に婚約、8月9日に結婚というスピード婚だったうえに、女性人気の高い俳優でありながら長らく独身であったことから、女性週刊誌を中心に、独身主義者が挫折して遂に結婚といった報道がなされた。その為か、同年輩の独身男性から「(あなたは独身主義者だと思っていたのに)裏切られた」という抗議の手紙が小山田の元に寄せられたという。それを受けて小山田自身が『諸君!』に、マスコミの勝手なレッテル張りにやんわりと釘を刺す「虚像の〝独身主義〟」と題したユーモラスな一文を寄稿した[脚注 2][8]。日夏との間には一男一女がある[2]

1971年に脳血栓[2]で左半身麻痺を患うが、夫人の献身的な支えもあり現役復帰した[9][10]。その後もテレビや舞台の仕事を続けたが、1976年2月に、新劇合同公演「桜姫東文章」の稽古中に体調を崩して降板し[11][12]1977年末に三度目の発作に襲われて療養を余儀なくされた[2]

1986年5月13日午後8時40分に、クモ膜下出血のため自宅で享年58歳で死去[13]した。当時はレギュラー出演していた『大都会 PARTII』が日本テレビで再放送されており、最終出演であった31話の最後に追悼のテロップが流れた。

出演作品(俳優) 編集

テレビドラマ 編集

映画 編集

舞台 編集

出演作品(声の出演) 編集

吹き替え 編集

太字は、主役・メインキャラクター。

担当俳優 編集

ヘンリー・フォンダ

映画 編集

1971年

1973年

1974年

1976年

ドラマ 編集

1966年

1967年

1968年

1969年

1973年

海外アニメ 編集

放映日不明 編集

テレビアニメ 編集

ラジオドラマ 編集

ナレーション 編集

CM 編集

その他 編集

  • おじさんおはなししてよ(1964年、NHK)
  • 2時ですこんにちは「小山田宗徳ショー」(1966年 日本テレビ)

音楽 編集

  • EP:涙こらえて/星は流れる(東芝レコード、JP-1367) - 日本テレビドラマ『地方記者』主題歌(1962年)
  • EP:北に南に/青い雨(東芝レコード、JP-1505) - 日本テレビドラマ『続・地方記者』主題歌(1962年)

レコード 編集

歌唱 編集

ナレーション、朗読 編集

  • EP:ポリドールこども劇場・レコード付紙芝居シリーズ(日本の民話「」世界の民話「星のふるばん」、芸術教育研究所) - ナレーター
  • LP:ブリトゥン:青少年の管弦楽入門 指揮:ローリン・マゼール(ポリドール・レコード) - ナレーター
  • LP:教育勅語・軍人勅諭・戦陣訓(テイチクレコード、BH-1516)
  • LP:フランク永井:旅情ビクター・レコード、1969年) - ナレーター ※第24回文化庁芸術祭参加作品
  • LP:プロコフィエフ:ピーターと狼/マゼール - ナレーター
  • LP:ミニヨン・ミュージカル:宮川泰安井かずみ(歌唱:天地真理峰岸徹、少年合唱団)『君よ知るや南の国』(1975年、CBSソニー) - ナレーター
  • LP:「実音!日大闘争の記録」(日本ビクター、1970年頃、日本盤PROMO)A-1.「手記 中国文学科 - ナレーター

出典・脚注 編集

  1. ^ a b c d 小山田宗徳. コトバンクより2022年1月9日閲覧
  2. ^ a b c d e f g h i j 「日本映画俳優全集 男優編 キネマ旬報増刊10.23号 No.772」1979年10月23日号 p.138 株式会社キネマ旬報社
  3. ^ 小山田宗徳の解説”. goo人名事典. 2022年1月9日閲覧。
  4. ^ 小島正雄「おしゃべりジャーナル 小山田宗徳」『週刊平凡』3(22)、平凡出版、1961年6月、40-41頁。 
  5. ^ 「週刊明星」1961年2月 p.88 集英社
  6. ^ 「文化運動便覧」p.314 1962年 武蔵書房
  7. ^ 「歌劇 Takarazuka revue (529)」p.126 1969年10月 宝塚クリエイティブアーツ
  8. ^ 小山田宗徳「前言訂正」『諸君! : 日本を元気にするオピニオン雑誌』1 (5)、文藝春秋、11、97-98頁。 
  9. ^ 「婦人倶楽部」1971年10月 p.219-223 講談社
  10. ^ 「婦人倶楽部」1972年12月 p.237-239 講談社
  11. ^ 「演劇界」1976年 34巻 p.26 日本演劇社
  12. ^ パンフレットには権助役として小山田の名が記載されているが、本公演への出演は叶わず、清玄役の菅貫太郎が権助と二役を演じて代役を務めた
  13. ^ 「キネマ旬報 6月下旬号 No.938」p.105 1986年 キネマ旬報社
  14. ^ 「藝能」1965年1月号 p.73
  1. ^ 1954年に、俳優座養成所二期生・三期生の卒業生が「劇団新人会」を結成し、1960年に小沢昭一らによって「俳優小劇場」に分裂する。その後再建するも渡辺美佐子は退団し、劇団新人会は解散。1970年に長山藍子山本學前田昌明らが“第二次「劇団新人会」”を結成し、1994年に「劇団朋友」に改称する。
  2. ^ 小山田宗徳が41歳、日夏悠理が31歳。両者ともに初婚で、当時としてはかなり晩婚と思われる年齢だった。

関連項目 編集

以上の6人は「劇団俳優小劇場」の旗揚げメンバーである。

外部リンク 編集