小村欣一

日本の外交官、貴族院議員、華族

小村 欣一(こむら きんいち、1883年明治16年)5月13日 - 1930年昭和5年)12月29日)は、大正・昭和初期の外交官貴族院議員華族侯爵)。

小村 欣一
こむら きんいち
小村欣一
生年月日 1883年(明治16年)5月13日
出生地 日本の旗 日本 東京市
没年月日 (1930-12-29) 1930年12月29日(47歳没)
死没地 日本の旗 日本 東京市
出身校 東京帝国大学
称号 侯爵
勲二等瑞宝章
子女 淑子
親族 小村寿太郎(父)、小村捷治(弟)

在任期間 1929年(昭和4年)6月 - 1930年(昭和5年)12月

在任期間 1911年12月22日 - 1930年12月29日
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人物 編集

明治期の外交官、小村寿太郎の長男として生まれた。母は幕臣朝比奈孝一の娘、マチ(町子)である[1]。欣一の生まれる少し前、祖父(寿太郎の父)の寛が宮崎県で経営していた飫肥商社が倒産し、小村一家は莫大な借金をかかえた[1]。そのため、父寿太郎が外務省翻訳局長の職にありながらも、小村家の生活は逼迫しており、幼い欣一は栄養不足のため夜盲症に罹ったといわれる[1][注釈 1]

欣一は日本中学一高を経て、1907年(明治40年)7月、東京帝国大学法科大学政治学科を卒業した。東大では成績優秀につき銀時計を賜った。同年11月、外交官及領事官試験に合格、外交官補になり清国に赴任。翌年、英国日本大使館に赴任したた[2]

1911年、父が危篤になり帰国。父の死後、同年12月22日に侯爵を継ぎ、貴族院侯爵議員となった[3]。外務省では政務局第一課長、情報部次長、情報部長などを歴任。1929年拓務省が設置されると朝鮮部長、次官に就任した(当初の拓務大臣は田中義一首相が兼務)。次の濱口内閣でも拓務次官に留任した[4]

この間、中野正剛の東方会(1917年1936年結成の東方会とは別)に参加、また東亜同文会理事を務めた。演劇が趣味で国民文芸会(1919年)に加わり、国立劇場設置運動を推進したが、関東大震災のため実現しなかった[5][注釈 2]。演劇界、文芸界、美術界などに顔が広く、「外務省きっての名物男」と呼ばれた[7]

海外経験豊富で裂帛の闘志をもって仕事一筋に打ち込んだ父の寿太郎と比較して、多趣味な欣一は外国勤務を嫌がったこともあって、父ほどは出世しなかったが、父のおこなった帝国主義外交ではなくアメリカ合衆国が主唱した「新外交」を日本の外務省が呼応し、そのための政策立案においては重要な役割をになった[8]

1930年(昭和5年)12月29日に急逝。47歳。墓所は青山霊園(1ロ12-1~6)。

栄典 編集

位階
勲章等

家族 編集

 
妻、温子
 
長女、淑子

脚注 編集

注釈 編集

  1. ^ 小村寿太郎が外相として華々しく活躍して有名人になるにつれ、雌伏時代の小村家の貧乏暮らしも有名になり、のちに国定教科書に掲載されたほどであった[1]
  2. ^ 母のマチの唯一の趣味が芝居見物であり、父寿太郎の事情は考えず観劇のため家を留守にすることもしばしばあったと伝わっている[6]

出典 編集

  1. ^ a b c d 片山(2011)pp.26-28
  2. ^ 千田稔『華族総覧』講談社現代新書、2009年7月、566頁。ISBN 978-4-06-288001-5 
  3. ^ 『官報』第8555号、明治44年12月25日。
  4. ^ 経歴は主として1930年12月30日付「読売新聞
  5. ^ 木村敦夫「文化政策としての「国民文芸会」の活動」
  6. ^ 半藤(1983)p.75
  7. ^ 1923年5月10日付読売新聞
  8. ^ 片山(2011)p.239
  9. ^ 『官報』第8398号「叙任及辞令」1911年6月21日。
  10. ^ 『官報』第8454号「叙任及辞令」1911年8月25日。
  11. ^ 『官報』第1674号「叙任及辞令」1918年3月5日。

参考文献 編集


日本の爵位
先代
小村壽太郎
侯爵
小村(壽太郎)家第2代
1911年 - 1930年
次代
小村捷治
公職
先代
広田弘毅
外務省情報部次長
1923年 - 1927年
次代
廃止
先代
出淵勝次
外務省情報部長
1927年 - 1929年
次代
斎藤博
先代
新設
拓務次官
1929年 - 1930年
次代
堀切善次郎