居郷 肇(いごう はじめ、1956年4月11日 - )は、岡山県岡山市出身の元社会人野球選手(内野手)、実業家。株式会社西武ライオンズ代表取締役社長。

居郷 肇
基本情報
国籍 日本の旗 日本
出身地 岡山県岡山市
生年月日 (1956-04-11) 1956年4月11日(68歳)
選手情報
ポジション 内野手
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)

人物 編集

岡山市立瀬戸中学校入学と同時に、投手として本格的に野球を始める。

倉敷工業高時代も投手として活躍し、1974年第46回選抜高等学校野球大会に出場。磐城高滝川高を降し準々決勝まで勝ち上がったが、池田高に1-2で敗れ、ベスト8で終わった[1]。同年夏はエースの座を1年下の兼光保明に譲り、二塁手、四番打者として県予選を勝ち抜き、東中国大会決勝に進むが、玉島商に完封負けを喫し甲子園出場を逸する。

高校卒業後、1975年法政大学経営学部に入学し、野球部に入部する。1年先輩に江川卓佃正樹ら好投手がいたことや、自身も肩を痛めて投手が出来なくなったため、内野手三塁手、二塁手)に転向。なお捕手袴田英利も1年先輩である。東京六大学野球リーグでは在学中4回優勝。1977年秋季リーグ戦、対東大1回戦の延長14回裏にサヨナラホームランを放つ(14回完投した江川の44勝目)。1978年の大学4年時には主将に就任し、同年春季リーグの対立教大学1回戦で東京六大学野球史上初のサイクルヒットを達成。リーグ戦通算42試合出場、155打数56安打、打率.361、5本塁打、22打点。ベストナイン(二塁手)2回選出。

大学卒業後、社会人野球プリンスホテルへ第1期生として入部する。1980年には都市対抗にチーム初出場を果たし、1回戦で神戸製鋼と対戦。居郷の適時打による1点をエース住友一哉が守り切り完封勝利。しかし2回戦では新日本製鐵釜石に延長13回、リリーフの小林秀一熊谷組から補強)が打ち込まれサヨナラ負け[2]。この試合でも適時打、本塁打を放ち活躍した。その後も赤坂プリンスホテルに勤務する傍ら、30歳までプレーを続けた。

現役引退後は、プリンスホテル社員として社業に専念。系列の大箱根カントリー倶楽部総支配人などを務め、2009年6月にはプリンスホテル執行役員に就任[3]

2011年にプリンスホテル執行役員から3月16日付で、プロ野球埼玉西武ライオンズ球団代表取締役社長及び球団オーナー代行に就任し野球界に復帰[4]。球団社長就任以降は主力選手のFA流出阻止の失敗・獲得した外国人選手の不振などで2014年から2016年まで連続してBクラスに終わりチームの低迷が続いていたが[5][6][7]辻発彦が監督に就任した2017年から2020年まではAクラスだった。2021年は42年ぶりの最下位に終わった。

2022年1月15日付で球団社長を退任。後任は奥村剛[8]

脚注 編集

  1. ^ 「選抜高等学校野球大会60年史」毎日新聞社編 1989年
  2. ^ 「都市対抗野球大会60年史」日本野球連盟 毎日新聞社 1990年
  3. ^ 役員、執行役員の異動のお知らせ (PDF) プリンスホテルプレスリリース 2009年5月14日付
  4. ^ 役員異動のお知らせ 埼玉西武ライオンズプレスリリース 2011年3月10日付
  5. ^ 西武 株主総会でチームへ厳しい声「強くなる傾向が見えない」スポニチアネックス 2016年6月22日 同日閲覧
  6. ^ 西武株主総会で厳しい声「森を捕手で使わないのか」日刊スポーツHP 2016年6月22日 同日閲覧
  7. ^ 【西武】株主からチーム編成に厳しい意見「森を捕手に」…西武HD株主総会スポーツ報知 2016年6月22日 同日閲覧
  8. ^ “西武 新球団社長に奥村氏「勇気と感動を与えられる強くて愛される球団づくりを」”. Sponichi Annex. (2021年12月24日). https://www.sponichi.co.jp/baseball/news/2021/12/24/kiji/20211224s00001173177000c.html 2021年12月24日閲覧。 

関連項目 編集

外部リンク 編集