悪小次郎
悪 小次郎(わる こじろう)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての人物。毛利氏の鉄砲放(鉄砲隊)に所属した中間。諱は景政。子は悪八左衛門、孫は悪政道(弥左衛門)。
時代 | 戦国時代 - 安土桃山時代 |
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生誕 | 不詳 |
死没 | 不詳 |
改名 | 悪 景政 |
別名 | 小次郎(通称) |
主君 | 毛利元就→輝元 |
氏族 | 悪氏 |
子 | 八左衛門 |
生涯 編集
悪小次郎の出自についてはよく分かっていないが、毛利氏に中間として仕え、鉄砲放(鉄砲隊)に所属した。
永禄12年(1569年)の立花城の戦いで毛利氏は大友氏の立花城を攻略した。この戦いで立花城の攻略に成功した理由として、毛利軍が鉄砲を有効に活用した事が挙げられており、小次郎以外にも市川久栄、岡元良などが鉄砲で活躍した。同年5月18日の多々良浜の戦いで、大友氏の戸次鑑連(立花道雪)らが毛利氏の宍戸隆家、多賀山通続、山内隆通、楢崎信景、椋梨弘平らの陣を襲撃した。この戦いで小次郎は多賀山通続の陣で敵3人を射伏し、5月20日に福原貞俊から後日の注進の為の念書を与えられた。
永禄13年(1570年)、毛利輝元は出雲国へ侵攻した尼子勝久を討伐するため出雲国へ出陣。これに小次郎も従軍し、出雲国富田において、どんな虎口でも先懸を務め、天野隆重は桂元忠に対して小次郎に褒美を与えるよう書状を送っている。同年4月18日には、尼子方の宮倉右衛門兵衛尉を鉄砲で射伏せた。同年5月5日の出雲国楯縫郡平田における尼子軍との合戦において、小次郎は鉄砲で敵を射伏す武功を挙げた。この功に対し毛利元就は同年7月16日、比類無き武功であると小次郎に申し聞かせるよう、井上就重に命じた。
天正10年(1582年)2月の備前国児島郡八浜における八浜合戦では、敵1人を射ち取る武功を挙げた。同年3月28日に毛利輝元は、神妙であると小次郎に申し聞かせるよう二宮就辰に命じている。また、天正13年(1585年)の四国征伐では、伊予国において敵1人を射ち取った。この時も同年6月21日に毛利輝元は井原元良に命じて、小次郎は忠義神妙であると申し聞かせている。