文室 海田麻呂(ふんや の うみたまろ)は、平安時代初期の貴族備前守三諸大原の五男。官位従五位上石見守

 
文室海田麻呂
時代 平安時代初期
生誕 延暦9年(790年
死没 天安2年1月24日858年2月11日
官位 従五位上石見守
主君 嵯峨天皇淳和天皇仁明天皇文徳天皇
氏族 文室氏
父母 父:三諸大原
兄弟 綿麻呂正嗣、名嗣、秋津海田麻呂宮田麻呂
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経歴 編集

弘仁年間に校書殿として出仕を始め、嵯峨朝では常陸大掾主水正を歴任する。淳和朝では左馬大允民部大丞と京官を歴任するが[1]天長8年(831年)に従五位下紀伊守に叙任され地方官に転じる。

仁明朝でも伊予介と引き続き地方官を務めたのち、承和12年(845年弾正少弼に任ぜられ京官に復し、翌承和13年(846年)従五位上に叙されている。嘉祥2年(849年石見守と仁明朝末に再び地方官に遷った。

文徳朝末の天安2年(858年)正月24日卒去享年69。最終官位散位従五位上。

官歴 編集

六国史』による。

脚注 編集

  1. ^ 『日本文徳天皇実録』天安2年正月24日条

参考文献 編集