星野富弘

日本の詩人・画家 (1946 - 2024)

星野 富弘(ほしの とみひろ、1946年4月24日 - 2024年4月28日)は、日本詩人画家。国内外で「花の詩画展」が開かれている。

星野 富弘
(ほしの とみひろ)
誕生 (1946-04-24) 1946年4月24日
日本の旗 日本群馬県勢多郡東村
死没 (2024-04-28) 2024年4月28日(78歳没)
職業 詩人画家(詩画作家)
随筆家
言語 日本語
国籍 日本の旗 日本
教育 学士教育学
最終学歴 群馬大学教育学部体育科
活動期間 1972年 - 2024年
ジャンル 水彩画ペン画随筆
代表作 『愛、深き淵より。』(1981年)
『四季抄 風の旅』(1982年)
主な受賞歴 群馬県名誉県民(2006年)
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来歴

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1946年4月24日、群馬県勢多郡東村(現:みどり市)に生まれる[1]。東村立杲小学校、東村立東中学校群馬県立桐生高等学校を経て[2]1970年群馬大学教育学部保健体育科を卒業し、高崎市立倉賀野中学校の体育教師になるが、同年6月17日クラブ活動の指導中の墜落事故で頭部から転落し頸髄損傷。手足の自由を失う[1]

1972年群馬大学病院入院中に口に筆をくわえて文や絵を書き始める[1]1974年、病室でキリスト教洗礼を受ける[1]。入院中の1979年、前橋で最初の作品展を開く。同年9月に退院し、帰郷[1]

1981年結婚[1]。雑誌や新聞に詩画作品やエッセイを連載。1982年高崎で「花の詩画展」開催[1]1991年5月12日、群馬県勢多郡東村に村立富弘美術館が開館[3]

「花の詩画展」は海外でも開催されており、ブラジル各都市をはじめ、1994年ニューヨーク2000年ハワイ(2度目)、2001年サンフランシスコロサンゼルスと開催された。2003年ポーランド国立博物館での「バリアフリーアート展」に招待出品。

2005年4月、富弘美術館新館が開館。2006年5月熊本県葦北郡芦北町芦北町立星野富弘美術館が開館。同年6月、群馬県名誉県民となる。2021年12月、富弘美術館の入館者が700万人を超える。

2012年、第79回NHK全国学校音楽コンクール高等学校の部課題曲「明日へ続く道」および「もう一度」を作詞。

2024年4月28日、呼吸不全のため78歳で死去[4]

著作

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美術館

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みどり市立富弘美術館
 
芦北町立星野富弘美術館
みどり市立富弘美術館
1991年(平成3年)、群馬県勢多郡東村(当時)の草木湖のほとりに、星野富弘の作品を展示する村立富弘美術館が開館した。ふるさと創生資金を活用し、使われなくなっていた福祉施設を改築して、美術館にしたものである。
この頃すでに、全国各地で開催されていた「花の詩画展」やテレビ番組、また教科書に掲載された随筆などによって、星野富弘の名は広く知られていたことから、富弘美術館は開館当初から多くの入場者が訪れ、2002年(平成14年)には入館者が400万人を超えるまでになった。2005年(平成17年)に新富弘美術館建設国際設計競技を経て、旧館の隣に新館の建設に着手、同年4月16日に新しい富弘美術館が開館した。
芦北町立星野富弘美術館
2006年(平成18年)5月、みどり市立富弘美術館の姉妹館として、熊本県葦北郡芦北町芦北町立星野富弘美術館が開館した。

脚注

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  1. ^ a b c d e f g 勢多郡東村誌編纂室 1998, p. 609.
  2. ^ 困難にあっても描く姿に「生きる力をくれた」 星野富弘さん死去、群馬県内外の関係者が惜しむ 飾らない人柄を懐かしむ声も | 上毛新聞社のニュースサイト”. 困難にあっても描く姿に「生きる力をくれた」 星野富弘さん死去、群馬県内外の関係者が惜しむ 飾らない人柄を懐かしむ声も | 上毛新聞社のニュースサイト (2024年5月1日). 2024年6月27日閲覧。
  3. ^ 勢多郡東村誌編纂室 1998, p. 610.
  4. ^ 星野富弘さん死去 78歳 手足の自由失い 口に筆くわえ創作活動”. NHK NEWS WEB (2024年4月30日). 2024年4月30日閲覧。
  5. ^ a b c d e f 4点累計300万部をこえる、星野富弘「花の詩画集」シリーズ 7年ぶりの新刊『種蒔きもせず』5月17日刊行、@press(偕成社)、2010年4月20日 13時30分。

参考文献

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  • 勢多郡東村誌編纂室『勢多郡東村誌 通史編』1998年2月25日。 

関連項目

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外部リンク

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