曹 鼐(そう だい、1402年 - 1449年)は、明代官僚政治家は万鍾、は恒山。本貫趙州寧晋県

生涯 編集

曹祉の子として生まれた[1]。若くして剛直豪爽で大志を抱き、継母に孝事して知られた。宣徳初年、郷挙により代州訓導に任じられた。1429年(宣徳4年)[2]、別の職をつとめたいと願い出て、泰和県典史に転じた。1432年(宣徳7年)、工匠を率いて北京に上り、上疏して受験を志願し、順天府郷試に及第した。翌年、進士に及第し、一甲第一の成績で、状元となった。翰林院修撰に任じられた。

1436年正統元年)、曹鼐は英宗経書を講義する講官をつとめた。1438年(正統3年)、『宣宗実録』が完成すると、翰林院侍講に進んだ。1440年(正統5年)、楊栄楊士奇の推薦により、文淵閣に入り、国政の機密に参与した。楊栄が死去し、楊士奇が病のため職務に耐えなくなると、閣務の多くは曹鼐により決裁されるようになった。1444年(正統9年)[3]、英宗にその賢を認められ、翰林院学士に進んだ。1445年(正統10年)、吏部左侍郎・兼学士に進んだ。

1449年(正統14年)7月、オイラトエセン・ハーンが侵攻してくると、宦官王振が英宗をたきつけて親征させた。朝臣たちはかわるがわる上書して諫めたが、聞き入れられなかった。曹鼐は張益とともに閣臣として扈従した。明軍が大同府に着かないうちに、軍の食糧はすでに足りなくなっていた。宋瑛朱冕の部隊は全軍が壊滅した。朝臣たちは軍を返すよう求めたが、王振は許さず、諸軍に進軍を命じた。曹鼐は「臣子はもとより惜しむに足りないが、主上は天下の安危にかかるもの。どうして軽々しく進むべきでしょうか」と言ったが、王振は聞き入れなかった。先鋒隊の敗報が届いて、ようやく王振は撤退を決断した。定襄侯郭登が紫荊関に入るよう曹鼐と張益に提案した。王振は蔚州の私邸に英宗を迎えようとしたが、聞き入れられず、居庸関に向かうこととなった。

8月辛酉、明軍は土木に宿営した。土木の地勢は高く、地面を2丈掘っても水を得られなかった。オイラト軍が大挙してやってきて、南河に拠った。翌日、オイラト軍は偽って退却し、使者を派遣して講和を願い出た。英宗は曹鼐を召し出して詔を起草させ、これに答えた。王振は水を求めて本営を移動させようとして、軍の混乱を招いた。オイラトの騎兵が明軍に向かって突入すると、英宗は包囲を脱出しようとして失敗し、オイラト兵に捕らえられて連行された(土木の変)。曹鼐は張益らとともに殺害された。享年は48[4]景泰帝が即位すると、曹鼐は少傅・吏部尚書・文淵閣大学士の位を追贈され、文襄とされた。1457年天順元年)、英宗が復位すると、加えて太傅の位を贈られ、文忠と諡を改められた。

脚注 編集

  1. ^ 廖道南『殿閣詞林記』巻3
  2. ^ 談遷国榷』巻21
  3. ^ 『国榷』巻26
  4. ^ 王世貞『弇山堂別集』巻45

参考文献 編集

  • 明史』巻167 列伝第55