木下成太郎
日本の実業家、政治家
木下 成太郎(きのした しげたろう、1865年9月21日(慶応元年8月2日)[1] - 1942年(昭和17年)11月13日[2])は、日本の実業家、政治家。衆議院議員。
経歴 編集
但馬国豊岡藩家老・木下弥八郎の長男として生まれる[1][3][4]。宝林義塾で漢学を修め、さらに大学予備門で学んだ[1][2][4]。自由民権運動に加わり自由党に加入[3][4]。1887年12月、保安条例により東京外三里に追放され、父が在住していた北海道室蘭に渡った[4]。
その後、厚岸町に移り農業、農牧業を経営[4][注 1]。またヨード製造に着目し、その先駆者となった[2][3][4]。厚岸町会議員、徴兵参事員、北海道会議員(2期、釧路支庁選出)、水産組合長、漁業組合取締役などを歴任[2]。また、大東文化協会、帝国美術学校(現武蔵野美術大学)の創設に参画した[3]。
1912年5月の第11回衆議院議員総選挙で北海道根室外三支庁管内から出馬し当選[2]。以後、第14回、第16回から第20回(第19回は繰上)までの総選挙で当選し、衆議院議員を通算七期務め、立憲政友会総務となる[2]。
著作 編集
- 『大正政変を顧みて』木下成太郎、1914年。
- 『東亜指導者養成機関としての大学設立に関する建議案説明』木下成太郎、1939年。
伝記 編集
- 山下竜門『北海の太閤木下斗南』木下成太郎氏伝記刊行会、1935年。
- 木下成太郎先生伝刊行会編『木下成太郎先生伝』木下成太郎先生伝刊行会、1967年。