朴 吉南(パク・キルラム、박길남)は、朝鮮民主主義人民共和国軍人ソ連派に所属。ロシア名はニコライ・ニコラーエヴィチ・パク(ロシア語: Николай Николаевич Пак[2][3]

朴吉南
生誕 1911年
死没 1987年[1]
所属組織 ソ連軍
朝鮮人民軍
最終階級 大尉(ソ連軍)
少将(人民軍)
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朴吉南
各種表記
ハングル 박길남
漢字 朴吉南
朴吉男
発音: パク・キルラム
パッキルラム
M-R式 Pak Killam
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経歴 編集

1911年、ニコリスク・ウスリースキー出身[3]。1934年9月から1936年10月までソ連軍に勤務。1938年、ソ連軍に再招集。1941年、ソ連軍偵察学校卒業[4]兪成哲によれば朴吉南は偵察学校の朝鮮人学生としては1期生で、朴を含め同期は6人だった[5]極東ソ連軍に配属され、日本軍支配地域に潜入工作[4]東北抗日連軍で活動[6]第88旅団に配属され、第1大隊第2中隊小隊長[7]。この部隊には金日成がいたが、朴の妻が軍服の丈を詰めてくれという頼みを断ったことから、金日成の憎しみを買ったという[8]

1945年9月、第88旅団隊員と共にソ連軍艦のプガチョフ号に乗船して9月19日に元山港に入港[9]。第25軍政治委員レベデフ少将の通訳に任命[10]

1946年7月20日、中央保安幹部学校が開校して射撃学部部長に就任[11]。同年9月、保安幹部訓練大隊工兵副部長[12]

1948年、工兵部長の黄虎林が副総参謀長に昇進すると、工兵部長に就任[13]。 同年9月、民族保衛省工兵局長[14]

1950年6月23日、朝鮮人民軍前線司令部工兵局長[15]

1950年代後半に逮捕され、40日間イデオロギー調査をされる[2]。釈放後はソ連大使館のマルチェフスキー将軍の部署に避難し、長期に及ぶ交渉の結果、ソ連大使館は、朴を朝鮮当局からソ連に帰す許可を得た[2]。これには朴の妻がソ連のエリート達に知られており、そのコネクションから決定されたと言われている[2]

人物 編集

  • 部下である朱栄福が日本軍に服務していたことを知っていたが、彼を信じて昇進の推薦などを行った。朱は「こんな良い上官に仕えてきたのを、僕は幸いだと思う。こういう人には一生のうち二度と会えるものでない」と書いている[16]
  • 1950年8月の解放記念日に「いったい日本の武力統治時代に、彼らに協力せずにどうやって国民が存続しえただろう。南朝鮮に反動分子は多いというが、環境によって当局に協力しなければならないのは、当たり前じゃないか」とつぶやいている[16]
  • 兪成哲は朴を親友と見ていた[17]。いつ粛清されるか戦々恐々としていたときに訪れて「金日成はいま、三種の類型に分類した粛清名簿を持っている。第一の分類対象は処刑し、第二の分類は無期限労役に就かせ、第三の分類は出国を希望すれば、追放するということになっている。ぼくらは第三の分類に入れられている」と教えてもらったという[17]

勲章 編集

出典 編集

参考 編集

  • 東亜日報,韓国日報 編 著、黄民基 訳『金日成 その衝撃の実像』講談社、1992年。ISBN 4-06-205863-4 
  • 和田春樹『金日成と満州抗日戦争』平凡社、1992年。ISBN 4-58-245603-0 
  • 朱栄福『朝鮮戦争の真実 元人民軍工兵将校の手記』悠思社、1992年。ISBN 4-946424-35-0 
  • 赤木完爾 編『朝鮮戦争 休戦50周年の検証・半島の内と外から』慶應義塾大学出版会、2003年。ISBN 4-7664-1038-6 
  • アンドレイ・ランコフ 著、下斗米伸夫,石井知章 訳『スターリンから金日成へ 北朝鮮国家の形成1945~1960年』法政大学出版局、2011年。ISBN 978-4-5886-0316-7 
  • 金賛汀『北朝鮮建国神話の崩壊 金日成と「特別狙撃旅団」』筑摩書房〈筑摩選書〉、2012年。ISBN 978-4-48-001542-6 
  • 우동현 (2016) (PDF). 1945~1950 년 재북 소련계 조선인의 활동과 성격. ソウル大学校大学院. http://s-space.snu.ac.kr/bitstream/10371/132215/1/000000132671.pdf 2019年1月25日閲覧。.