李瑾 (襄城伯)
生涯 編集
李隆の子として生まれた。1449年(正統14年)に兄の李珍が土木の変で死去すると、1450年(景泰元年)6月に後を嗣いで襄城伯に封じられた[1]。1467年(成化3年)、四川の都掌の少数民族が反乱を起こすと、李瑾は征夷将軍の号を受け、総兵官としてその鎮圧にあたった。軍が永寧に到着すると、李瑾は軍を六路に分けて進めた。李瑾は程信とともに各部隊を統制し、反乱側の寨を全て撃破した。前後して4500人あまりを斬首し、多数の武器や家畜を鹵獲した。都掌の地を分割して、官治を建設して支配した。1468年(成化4年)、凱旋すると、侯位に進んだ。1486年(成化22年)10月、太保の位を加えられた[1]。1489年(弘治2年)3月、死去した。芮国公に追封された。諡は壮武といった。
李瑾は兄の李璉の子の李鄌を養子としていた。李瑾が死去すると、実子の李黼が襄城伯を嗣いだが、李黼が1498年に死去すると、李鄌が後を嗣いだ。
脚注 編集
参考文献 編集
- 『明史』巻146 列伝第34