松平康孝

戦国時代の武将。鵜殿松平家初代、あるいは三木松平家初代

松平 康孝(まつだいら やすたか)は、戦国時代武将松平宗家6代当主・松平信忠の子。松平清康の弟。通称は十郎三郎。鵜殿松平家、あるいは三木松平家初代として考察される人物。

 
松平康孝
時代 戦国時代
生誕 不明
死没 天文11年3月18日1542年4月3日
別名 十郎三郎
戒名 礼翁善忠または礼翁禅忠
氏族 鵜殿松平家あるいは三木松平家
父母 父:松平信忠
兄弟 清康信孝康孝、久、東姫、矢作殿、瀬戸の大房
康定
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略歴 編集

三河物語』に、松平信忠が「三男十郎三郎殿に見次の郷を譲せ給う」(28頁)とあり、また『三河国二葉松』の「三木村古城」および「浅井村古城」に「清康御弟君松平十郎三郎康孝」(下巻77頁および84頁)とあることから、安祥松平から分出して所領を持っていたと考えられる。

また『松平記』は松平広忠岡崎還住に際し、大久保新八が清康の弟「十郎三郎」に相談したと記し(103頁)『三家考』は康孝が兄・信孝と共に帰還後の広忠を後見したとしている(『徳川実紀』1巻23頁の記述はこれに拠ったものか)。

『三家考』は天文5年(1536年)2月、織田信秀が8,000余りの兵を率いて三河国に侵入したと記す。『松平記』にこの戦いの記述があり「松平十郎三郎」の名が松平方の大将として現われる。『三家考』は「清康の舎弟 松平蔵人 同弟十郎三郎康孝」と明記して、この兄弟が800人の兵を率い「伊田の郷」に布陣して戦ったとしている。

『朝野旧聞裒藁』は『三河国古墳考』ほかを引いて天文11年3月18日卒としているが(1巻616頁以下)『御九族記』には天文15年(1546年)5月とする異説が記されている。

法名は礼翁善忠(『寛永諸家系図伝』1巻105頁『寛政譜』1巻22頁)もしくは礼翁禅忠(『御九族記』)。『三河国二葉松』は院号を「宝琳院」とし「浅井村源空院 在松平十郎三郎康孝墳」と記している(下記刊行本下巻119頁)。

:史料の巻数および頁数はすべて下記刊行本による。

系譜 編集

  • 父:松平信忠
  • 母:不詳
  • 『御九族記』の記す兄弟は次のとおり。康孝は三男とされている。
    • 松平清康
    • 松平信孝
    • 吉良持広の室:「瀬戸之大房」(『寛政譜』2巻『吉良』217頁同じ)
    • 「三州大浜道場」 称名寺・室
    • 松平乗勝(源次郎)の室:松平親乗(和泉守)の母。永禄4年8月2日卒、法名は常左院桂室恭栄、葬地は大樹寺。乗勝の妻が信忠の娘であることは『寛政譜』1巻「大給」55頁に記載があり、また清康の養女であるとも記している。
  • 『三家考』はその子を八郎三郎『康定』とし、始め父の遺領を継いだが早世したとしている。そのため所領は伯父・信孝に併呑されたという。所領が信孝に渡ったことについては『三河物語』『松平記』にも記述がある。
  • また三河国佐々木(佐崎)城主で、1538年梅森城(現・愛知県日進市梅森)を築城した松平信次は広忠の叔父にあたり、信忠の子、清康の兄弟とされる。しかし家系図に登場する事はなく、その存在について詳細は不明である。

参考文献 編集

  • 日本思想大系26 三河物語』岩波書店、1974年
  • 『三河文献集成 中世編』所収、「松平記」 国書刊行会、1980年
  • 刈谷市中央図書館所蔵『三家考』請求番号:W4080 ※巻末の附記に「享保乙巳(注・1725年)門人 平元成識」とある
  • 新城図書館所蔵『御九族記』請求番号:こ119
  • 『参河志』下巻 所収「三河国二葉松」歴史図書社、1969年
  • 国史大系第38巻『徳川実紀』第1篇 吉川弘文館、1981年
  • 内閣文庫所蔵史籍叢刊 特刊第1『朝野旧聞裒藁』1巻 汲古書院、1982年
  • 『寛永諸家系図伝』1巻 続群書類従完成会、1985年 
  • 『新訂寛政重修諸家譜』1巻、2巻 続群書類従完成会、1984年