松阪電気株式会社(まつさかでんき かぶしきがいしゃ)は、明治末期から大正にかけて存在した日本の電力会社である。中部電力パワーグリッド管内にかつて存在した事業者の一つ。

松阪電気株式会社
(旧・松阪水力電気株式会社)
種類 株式会社
本社所在地 日本の旗 日本 三重県
飯南郡松阪町大字松阪白粉町347番地[1]
設立 1903年(明治36年)12月25日[1]
解散 1922年(大正11年)5月1日[2]
三重合同電気を新設)
業種 電気
事業内容 電気供給事業
代表者 安保庸三(社長)
公称資本金 200万円
払込資本金 102万5000円
株式数 旧株:1万株(額面50円払込済み)
新株:3万株(17円50銭払込)
総資産 228万164円(未払込資本金除く)
収入 23万4272円
支出 11万4868円
純利益 11万9403円
配当率 年率12.0%(他に特別配当4.0%)
株主数 410人
主要株主 松阪共産株式会社 (11.5%)、安保庸三 (11.2%)、後藤友之助 (4.3%)、西川増次郎 (4.0%)、長崎精一 (3.7%)
決算期 5月末・11月末(年2回)
特記事項:代表者以下は1921年11月期決算時点[3]
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1903年(明治36年)設立、1906年(明治39年)に現在の三重県松阪市を供給区域として開業した。設立から1921年(大正10年)までは松阪水力電気(まつさかすいりょくでんき)、同年以降は松阪電気と称する。1922年(大正11年)に三重県下主要事業者の統合に伴って三重合同電気(後の合同電気)へと合併された。

最終的な供給区域は松阪市域を中心に三重県内に限られていたが、1910年代半ばには現在の静岡県掛川市および富山県氷見市にも支社を構え供給にあたっていた。

沿革 編集

明治期 編集

 
社長を務めた才賀藤吉

三重県における電気事業の歴史は1897年(明治30年)に始まる。この年、三重県下では津市・宇治山田市(現・伊勢市)・四日市市の3都市において、津電灯宮川電気(後の伊勢電気鉄道)・四日市電灯(後の北勢電気)の3つの電気事業者が相次いで開業したのである[4]。この3社はいずれも開業時点では火力発電を電源としていた[4]

この3都市以外にも飯南郡松阪町(1933年松阪市となる)にて電気事業の計画が起こり、1897年11月、地元の後藤友之助・安保庸三らの発起により「松阪水力電気株式会社」の設立が企図された[5]。しかしながら松阪での事業計画は、水力発電が世の中に認知されていなかったことに加え不況の影響もあり、株式の募集に難航して停滞した[5]。そのような中、日本各地で電気事業に関与していた実業家の才賀藤吉が計画に参画し株式の大部分を引き受けると、起業計画は一転して進捗するようになり[5]1903年(明治36年)12月25日付で会社設立に漕ぎつけた[1]。設立時の資本金は13万5000円[1]。役員は9名の発起人などから選ばれ、社長に後藤友之助、専務に安保庸三が就任した[5]。後藤は松阪の資産家[6]、安保は松阪で遊廓「金波楼」を経営していた人物(電気事業起業後は廃業)である[7]

電源となる水力発電所は櫛田川沿いの多気郡津田村(現・多気町)に建設され、出力は270キロワットであった(鍬形発電所[8]。設置に際しては地元との交渉(発電所建設予定地である鍬形地区では激しい反対運動が展開されたという[9])、水利組合・林業組合との折衝に苦労があったという[5]。才賀藤吉率いる才賀電機商会が発電機その他機械の据付、水路・隧道の開削、送配電線の架設、需要家取付工事、本社・発電所建物の建築などをすべて請け負って1904年(明治37年)6月に着工[5]1906年(明治39年)に工事を終えて10月1日より事業を開始し、11月4日に町内にて開業式を挙げた[5]。翌1907年(明治40年)1月、才賀も取締役に加わって新たに社長に選出された[5]

開業時の供給区域は松阪町内と周辺4か村(鈴止松江神戸花岡[5]。開業時点で供給する電灯の数は約700灯であったが、以後電灯設置の勧誘、供給区域の拡張に努めた結果、1906年12月末には2倍以上の1,700灯余りとなり、1907年7月時点ではさらに倍増して約3,300灯へと拡大した[5]。電灯供給のほかにも動力用電力の供給も開始しており[5]、それまで石油発動機を使用していた松阪木綿工場が機械の更新とともに動力をすべて電動力に転換するという事例も見られた[10]。事業の拡張に伴い1909年(明治42年)1月株主総会で第1回の増資を決議し、資本金を25万円としている[5]

1910年(明治43年)10月には、株主総会にて50万円への増資ならびに遠江電気株式会社(静岡県)・氷見電気株式会社(富山県)の2社からの事業買収を決定した[5]。翌1911年(明治44年)3月に譲受手続きを完了し、静岡県小笠郡掛川町(現・掛川市)に遠江支社を、富山県氷見郡氷見町(現・氷見市)に氷見支社をそれぞれ設置した[5]。これらの支社における事業の推移は、下記「支社事業の推移」にて詳述する。一方松阪地域でも動きがあり、1911年10月より発電所のある津田村と、それに隣接する多気郡相可村(現・多気町)および飯南郡射和村(現・松阪市)でも開業した[5]。以後、順次供給が周辺の村にも拡大していくことになる[5]

大正期 編集

 
三重県下の主要電気事業者供給区域図(1921年)。黄緑色の部分が松阪電気の供給区域

大正に入り才賀電機商会の破綻に伴って才賀藤吉が没落する(1915年社長辞任[9])と、松阪水力電気は地元経営者の手に渡り、安保庸三が新たに社長となった[11]1918年(大正7年)には支社事業を手放している。経営面では翌1919年(大正8年)12月に150万円の増資を決議し[12]、資本金を200万円とした[13]

開業以来、松阪区域の発電所は鍬形発電所のみであったが、供給区域の拡大とともに供給安定化のため1914年(大正3年)飯南郡花岡村(現・松阪市)に新道発電所を新設した[11]。同発電所は吸入ガス機関(サクションガス機関とも。ガス発生器が附属しておりそこからガスを吸入して運転する)を原動機として発電するガス力発電所で、出力は75キロワット、後に増設され150キロワットであった[11]。電源の増強はその後も続き、1920年(大正9年)には蒸気タービンを備える出力500キロワットの相可発電所を新設し、水力発電の補給を図った[11]。次いで1922年(大正11年)3月には出力700キロワットの下出江発電所が完成した[14]。これは鍬形発電所と同様櫛田川に建設された水力発電所である[14]。供給区域も随時拡大され、1919年11月には宇治山田市に近い度会郡田丸町(現・玉城町)でも開業し[15]宮川沿いの山間部では1921年(大正10年)8月に滝原村(現・大紀町)まで配電範囲が到達した[3]

上記のように火力発電設備が増加したため、1921年6月21日の株主総会にて社名から「水力」を外して「松阪電気株式会社」と改称した[11][16]。また同年内に、松阪町内の白粉町363番地(北緯34度34分13.6秒 東経136度31分51.6秒 / 北緯34.570444度 東経136.531000度 / 34.570444; 136.531000 (松阪医師会館))に鉄筋コンクリート造2階建ての新社屋[注釈 1]が完成している[17]

社名変更に本社新築が重なった1921年は、同時に三重県下の主要事業者の統合が進展した年でもあった。当時の三重県知事山脇春樹の主唱による統合計画は津電灯・松阪電気・伊勢電気鉄道3社の合併という形で話がまとまり、1921年11月27日株主総会での合併議決、翌1922年2月2日逓信省の合併認可と手続きが進行[13]。そして1922年5月1日、3社の新設合併による新会社・三重合同電気株式会社(後の合同電気)が発足し[13]、同日付で松阪電気を含む旧会社3社は解散した[2]。合併時、松阪電気の資本金は200万円、社長は安保庸三であった[13]

供給区域 編集

逓信省の資料によると、1921年6月時点における松阪電気の電灯・電力供給区域は以下の三重県内82町村であった[18]

飯南郡
(1町21村)
松阪町松江村神戸村花岡村射和村西黒部村櫛田村港村漕代村大石村伊勢寺村松尾村大河内村朝見村機殿村柿野村粥見村宮前村川俣村森村波瀬村(現・松阪市)、茅広江村(現・松阪市・多気町
一志郡
(8村)
阿坂村松ヶ崎村米ノ庄村天白村小野江村鵲村中原村豊田村(現・松阪市)
多気郡
(1町14村)
東黒部村(現・松阪市)、
斎宮村明星村大淀村下御糸村上御糸村(現・明和町)、
相可町津田村丹生村佐奈村西外城田村五ヶ谷村(現・多気町)、
川添村三瀬谷村荻原村(現・大台町
度会郡
(1町21村)
北浜村豊浜村小俣村城田村(現・伊勢市)、
田丸町東外城田村下外城田村(現・玉城町)、有田村(現・玉城町・伊勢市)、
内城田村中川村小川郷村一之瀬村(現・度会町)、
七保村滝原村柏崎村大内山村(現・大紀町)、
穂原村南海村中島村鵜倉村吉津村島津村(現・南伊勢町
志摩郡
(15村)
鵜方村神明村立神村甲賀村国府村安乗村志島村畔名村名田村船越村片田村布施田村和具村越賀村御座村(現・志摩市

ただし、会社の資料によると1921年11月末時点では上記区域のうち以下の32村が開業済み電灯・電力供給区域に含まれていない[3]

  • 飯南郡川俣村・森村・波瀬村
  • 多気郡荻原村
  • 度会郡内城田村・中川村・小川郷村・一之瀬村・七保村・柏崎村・大内山村・穂原村・南海村・中島村・鵜倉村・吉津村・島津村
  • 志摩郡全域

従って1921年11月末時点における開業済み電灯・電力供給区域は50町村であった[3]。同時点での供給成績は、電灯需要家2万8313戸・電灯数5万872灯、電力需要家89戸・電力供給高373馬力(約278キロワット)であった[3]

発電所 編集

1921年6月末時点で、松阪電気は三重県内に4か所・合計出力920キロワットの発電所を運転中で、さらに出力700キロワットの未完成発電所1か所があった[18]。これら5発電所の概要は以下の通り。

鍬形発電所 編集

松阪電気最初の発電所は鍬形発電所である。所在地は多気郡津田村大字鍬形(現・多気町鍬形)[8]。松阪水力電気の開業とともに1906年(明治39年)10月に発電を開始した[8]

櫛田川に建設された水力発電所の一つ[8]。川を横断する堰堤を設けて4.174立方メートル毎秒を取水し、蛇行する川を短絡する形で右岸に960メートルの水路を通し10.0メートルの有効落差を得て発電するという仕組みである[8]。出力は270キロワットで、フォイト(ドイツ)製のフランシス水車ブラウン・ボベリ(スイス)製の交流発電機各1台を備える[8]。発生電力の周波数は50ヘルツであったが、合同電気時代の1932年(昭和7年)に60ヘルツへ変更されている[8]

合同電気以降は東邦電力中部配電を経て1951年より中部電力に帰属したが[19]、水車の暴走事故で破損し1961年(昭和36年)12月に廃止された[8]。廃止後水利権および水路は三重県企業庁に移管され、発電所跡は農業用水供給用の沈砂池となっている[8]

下出江発電所 編集

松阪電気2番目の水力発電所は下出江発電所という。所在地は飯南郡茅広江村大字下出江(現・多気町下出江、北緯34度29分2.5秒 東経136度28分45.5秒[14]。三重合同電気設立目前の1922年(大正11年)3月10日に運転を開始した[20]

鍬形発電所と同じく櫛田川の水力発電所であり、櫛田川の堰堤より4.18立方メートル毎秒を取水し、左岸に沿った約2.8キロメートルの水路で22.4メートルの有効落差を得て発電した[14]。出力は700キロワットで、エッシャーウイス(スイス)製のフランシス水車と日立製作所製の交流発電機各1台を備える[14]。ここでも発生電力の周波数は50ヘルツであったが、1938年(昭和13年)10月60ヘルツに変更された[14]

合同電気以降は、東邦電力、中部配電を経て1951年より中部電力の所属となっている[19]

相可発電所 編集

相可発電所は、櫛田川沿いの多気郡多気町朝長(旧相可町大字朝長)に建設された火力発電所である[11]。下出江発電所建設期間中における需要増加に対応するとともに、同発電所完成後には渇水時補給用に充てる目的から建設され[21]1920年(大正9年)10月に運転を開始した[11]

ボイラー(汽缶)はバブコック・アンド・ウィルコックス(アメリカ)製[11]。エッシャーウイス製のツェリー式蒸気タービンと日立製作所製の交流発電機各1台を備え、出力は500キロワットであった[11]。発生電力の周波数は他と同様の50ヘルツ[22]

松阪電気から三重合同電気(合同電気)へと引き継がれたが、1936年(大正11年)11月に廃止された[19]

ガス力発電所 編集

松阪電気はガス力(内燃力)発電所も運転した。発電所名は新道発電所(「第二発電所」とも[23])と第三発電所という[24]。発電所名は別だがどちらも飯南郡花岡村大字大黒田(現・松阪市大黒田町)に位置した[25]

新道発電所は1914年(大正3年)3月に運転を開始した[23][26]。松阪地区の供給力不足を補うため、受電切り替えによって不要となった遠江支社発電所の機械・建物一切を移設して建設されたものである[27]。一方第三発電所は1919年(大正8年)2月に完成した[28]。両発電所とも出力75キロワットであり、原動機として吸入ガス機関を1台持ち、イギリス製発電機を1台ずつ備える[25]。発生電力の周波数は鍬形発電所と同様50ヘルツに設定されている[25]

新道発電所については三重合同電気発足直前の1922年4月に廃止された[26]。一方第三発電所は三重合同電気時代の1924年6月に廃止届が出されている[29]

発電所建設に伴う地場産業への影響 編集

松阪水力電気により水力発電所が建設された櫛田川では、発電所の堰堤より上流側ではをはじめとする川魚の漁獲量の大幅減少がみられるようになった[9]。堰堤建設により川魚の遡上が妨げられるのが原因だとして会社は漁業関係者から補償を求められたため、1909年(明治42年)堰堤に魚道を設置した[9]

漁業以外では林業にも影響があった。櫛田川上流には県内有数の林業地域(波瀬地区)があり、その運材は江戸時代より筏流しにより運ばれ大口港から県内外に船積みされていた[9]。明治時代になり参宮鉄道の開通によって途中で陸揚げし相可駅(現在の多気駅)より鉄道輸送するルートが開発されたが、利用は2-3割程度で残りは変わらず櫛田川を利用していた[9]。やがて発電所の堰堤建設により筏流しはできなくなったが、かわって「菅流」という方法がとられた[9]。これは原木を上流からそのまま流し、堰堤前で一時貯木して魚道を一本ずつ通過させる手法である[9]1911年(明治44年)に松阪軽便鉄道により松阪 - 大石間に鉄道が開通、終点の大石駅が鍬形発電所上流の櫛田川そばに設置されたが、水面から数10メートルの絶壁であり用材を引き上げることは容易ではなかった[9]。鉄道輸送が増加するようになったのは、昭和のはじめになりクレーンが設置されて以降である[9]

支社事業の推移 編集

前述のように、松阪水力電気は1911年3月に遠江電気・氷見電気の2社から事業を買収し、静岡県に遠江支社を、富山県に氷見支社をそれぞれ設置していた。

遠江支社 編集

このうち、遠江電気は才賀藤吉が中心となって静岡県内から有志を募り、1910年6月に認可を得て起業した会社である[30]。設立は同年10月23日付[31]。本社は静岡県小笠郡掛川町掛川で、資本金は10万円[31]。才賀や野田儀一郎(堺市)らが取締役を務める[31]。吸入ガス機関による発電所を電源として掛川町その他に2,000灯の電灯を供給する予定であったが、開業を前に松阪水力電気遠江支社に事業計画が引き継がれた[30]

逓信省の資料によると、遠江支社は1911年6月28日に開業した[32]。同年7月には開業式が挙行されている[30]。電源として出力75キロワットのガス力発電所が建設されたが、翌1912年(明治45年)7月、大井川に水力発電所を建設した日英水電が掛川を通って浜松へと送電線を建設するのに伴い、同社から電力供給を受ける契約を締結した[30]。受電は1913年11月1日より開始[27]。受電(水力発電)転換によるコスト低下によって電気料金引き下げが可能となり、この地域での電灯普及に繋がった[30]

1918年(大正7年)8月5日、松阪水力電気は氷見支社に続き遠江支社の事業を27万5000円にて「日本電力」という事業者(1919年設立の大手電力会社日本電力とは別)へと譲渡すると決議し[33]、11月に事業を譲渡した[34]。遠江支社の事業は1920年10月にさらに遠江電気の手に渡っている[34]。この2代目遠江電気は静岡市郊外、安倍郡大里村静岡電力所在地)に本社を置く会社で、静岡電力専務の熊澤一衛が社長を務める[35]。翌1921年(大正10年)8月、遠江電気はその静岡電力へと合併された[34]

供給区域 編集

1918年8月時点における松阪水力電気遠江支社の電灯・電力供給区域は以下の通り[32]。すべて静岡県内である。

上記区域における1918年5月末時点での供給成績は、電灯8401灯・動力用電力60.5馬力であった[36]。電灯需要家数は4257灯で、うち3分の1が掛川町内に集まる[36]

氷見支社 編集

松阪水力電気に統合されたもう一つの事業者である氷見電気は、1910年5月に事業許可を取得し[37]、同年11月18日に設立された[38]。本社は富山県氷見郡氷見町大字湊町で、資本金は5万円[38]。地元氷見の人間は役員にはおらず、才賀藤吉・野田儀一郎・安保庸三らが取締役を務める[38]。遠江電気と同様、開業を前に事業権が松阪水力電気へと買収されたのち、松阪水力電気氷見支社として翌1911年7月1日に開業した[37]

氷見支社の電源もガス力発電所で、その出力は75キロワットであった[37]。供給区域は開業時点では氷見町内に限られたが、順次周辺3村にも拡大されている[37]

1918年6月20日、松阪水力電気は氷見支社の事業を14万円にて氷見電気(2代目)へと譲渡すると決議し[33]、同年9月に事業を譲渡した[39]。同社は広瀬鎮之ら地元の出資によって起業された会社で[39]、同年7月28日、資本金20万円で氷見町朝日に設立[40]。氷見電気では事業継承後、富山電気(後の日本海電気)が早月川第一発電所を完成させたのを機に同社からの受電を始め[41]、同年10月には自社の氷見発電所を廃止している[42]。以後好業績を挙げたものの、自社電源を持たないという不利から富山電気との合併を望むようになり、1926年(大正15年)1月には合併契約を締結、同年6月1日付で同社へ吸収された[39]

供給区域 編集

1918年8月時点における松阪水力電気氷見支社の電灯・電力供給区域は以下の通り[43]。すべて富山県内である。

ただし1918年5月末時点で電灯供給済みの地域は稲積村までの5町村に限られる[36]。同時点での供給実績は電灯4119灯(電力供給なし)であった[36]。需要家数は2494戸で、うち8割近くが氷見町内に集中する[36]

脚注 編集

注釈 編集

  1. ^ 中部電力松阪営業所となったのち、営業所移転に伴い「松阪医師会館」に転用されている[17]

出典 編集

  1. ^ a b c d 商業登記」『官報』第6152号附録、1904年1月7日付。NDLJP:2949462/15
  2. ^ a b 「商業登記」『官報』第3000号附録、1922年8月1日付。NDLJP:2955118/25
  3. ^ a b c d e 「松阪電気株式会社第36回事業報告書」(J-DAC「企業史料統合データベース」収録)
  4. ^ a b 浅野伸一「戦前三重県の火力発電事業」118頁
  5. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p 『飯南郡史』233-238頁。NDLJP:955842/153
  6. ^ 『飯南郡史』608頁。NDLJP:955842/352
  7. ^ 『三重県の産業と産業人』79-84頁
  8. ^ a b c d e f g h i 『三重の水力発電』55-57頁
  9. ^ a b c d e f g h i j 三木理史「明治末期における地方公益事業の地域的展開」30-41頁
  10. ^ 『飯南郡史』238-240頁。NDLJP:955842/156
  11. ^ a b c d e f g h i 浅野伸一「戦前三重県の火力発電事業」130-131頁
  12. ^ 『官報』第2362号附録、1920年6月17日付。NDLJP:2954475/30
  13. ^ a b c d 『東邦電力史』239-241頁
  14. ^ a b c d e f 『三重の水力発電』63-65頁
  15. ^ 「松阪水力電気株式会社第32回事業報告書」(J-DAC「企業史料統合データベース」収録)
  16. ^ 「商業登記」『官報』第2707号附録、1921年8月9日付。NDLJP:2954822/21
  17. ^ a b 『時の遺産』241頁
  18. ^ a b 『電気事業要覧』第13回74-75頁。NDLJP:975006/67
  19. ^ a b c 『中部地方電気事業史』下巻333-334・347-348頁
  20. ^ 「三重合同電気株式会社第1回事業報告書」(J-DAC「企業史料統合データベース」収録)
  21. ^ 「松阪水力電気株式会社第31回事業報告書」(J-DAC「企業史料統合データベース」収録)
  22. ^ 『電気事業要覧』第14回76-79頁。NDLJP:975007/65
  23. ^ a b 「松阪水力電気株式会社第21回事業報告書」(J-DAC「企業史料統合データベース」収録)
  24. ^ 『電気事業要覧』第12回220-221頁。NDLJP:975005/135
  25. ^ a b c 『電気事業要覧』第12回60-61頁。NDLJP:975005/55
  26. ^ a b 『中部地方電気事業史』下巻345頁
  27. ^ a b 「松阪水力電気株式会社第20回事業報告書」(J-DAC「企業史料統合データベース」収録)
  28. ^ 「松阪水力電気株式会社第30回事業報告書」(J-DAC「企業史料統合データベース」収録)
  29. ^ 「三重合同電気株式会社第6回事業報告書」(J-DAC「企業史料統合データベース」収録)
  30. ^ a b c d e 『掛川市史』下巻713-717頁
  31. ^ a b c 「商業登記」『官報』第8217号附録、1910年11月10日付。NDLJP:2951570/19
  32. ^ a b 『電気事業要覧』第11回36-37頁。NDLJP:975004/44
  33. ^ a b 「松阪水力電気株式会社第30回事業報告書」(J-DAC「企業史料統合データベース」収録)
  34. ^ a b c 『中部地方電気事業史』上巻 巻末「電気事業沿革図2」
  35. ^ 『電気事業要覧』第13回58-59頁。NDLJP:975006/59
  36. ^ a b c d e 「松阪水力電気株式会社第29回事業報告書」(J-DAC「企業史料統合データベース」収録)
  37. ^ a b c d 『北陸地方電気事業百年史』46頁
  38. ^ a b c 「商業登記」『官報』第8229号附録、1910年11月25日付。NDLJP:2951582/12
  39. ^ a b c 『北陸地方電気事業百年史』77・156頁
  40. ^ 「商業登記」『官報』第8229号附録、1910年11月25日付。NDLJP:2953981/16
  41. ^ 『北陸地方電気事業百年史』75-76頁
  42. ^ 『北陸地方電気事業百年史』巻末年表
  43. ^ 『電気事業要覧』第11回58-59頁。NDLJP:975004/55

参考文献 編集

  • 企業史
    • 中部電力社史編纂会議委員会(編)『時の遺産』中部電力、2001年。 
    • 中部電力電気事業史編纂委員会(編)『中部地方電気事業史』 上巻・下巻、中部電力、1995年。 
    • 東邦電力史編纂委員会(編)『東邦電力史』東邦電力史刊行会、1962年。 
    • 北陸地方電気事業百年史編纂委員会(編)『北陸地方電気事業百年史』北陸電力、1998年。 
  • 逓信省関連
    • 逓信省電気局(編)『電気事業要覧』 第11回、逓信協会、1919年。NDLJP:975004 
    • 逓信省電気局(編)『電気事業要覧』 第12回、逓信協会、1920年。NDLJP:975005 
    • 逓信省電気局(編)『電気事業要覧』 第13回、逓信協会、1922年。NDLJP:975006 
    • 逓信省電気局(編)『電気事業要覧』 第14回、電気協会、1922年。NDLJP:975007 
  • その他文献
    • 掛川市史編纂委員会(編)『掛川市史』 下巻、掛川市、1992年。 
    • 桐井謙堂『三重県の産業と産業人』名古屋新聞社地方部、1930年。 
    • 黒川静夫『三重の水力発電』三重県良書出版会、1997年。 
    • 中林正三『飯南郡史』飯南ト人材編纂会、1916年。NDLJP:955842 
  • 記事
    • 浅野伸一「戦前三重県の火力発電事業」『シンポジウム中部の電力のあゆみ』第10回講演報告資料集 三重の電気事業史とその遺産、中部産業遺産研究会、2002年、111-143頁。 
    • 三木理史「明治末期における地方公益事業の地域的展開 -才賀電機商会を事例として-」『人文地理』第43巻第4号、人文地理学会、1991年、24-43頁。 

関連項目 編集

  • 松阪電気鉄道 - かつて松阪に存在した鉄道事業者。松阪水力電気と同じく才賀藤吉・安保庸三がかかわる。