橋口 寛(はしぐち ひろし、1924年大正13年)7月15日 - 1945年昭和20年)8月18日)は、日本海軍軍人海兵72期太平洋戦争の末期、人間魚雷回天」の搭乗員となるが出撃する機会を得ず、終戦自決した。最終階級は海軍大尉

橋口 寛
生誕 (1924-07-15) 1924年7月15日
日本の旗 日本 鹿児島県鹿児島市上荒田町
死没 (1945-08-18) 1945年8月18日(21歳没)
日本の旗 日本 山口県熊毛郡平生町
所属組織  大日本帝国海軍
軍歴 1943 - 1945
最終階級 海軍大尉
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来歴 編集

1924年大正13年)7月15日鹿児島県鹿児島市上荒田町にて、橋口盛秀の長男として生まれる。荒田尋常高等小学校から旧制鹿児島県立第二鹿児島中学校へ進学したが、1941年昭和16年)12月8日真珠湾攻撃によって太平洋戦争が開戦すると、橋口が通っていた学校でも例外なく軍事教練が厳しさを増していった。国の存亡を決定づける大戦を感じていた成績優秀な橋口は、迷うことなく卒業後に海軍兵学校72期)への進学を決断した。1943年(昭和18年)9月15日に海軍兵学校を卒業すると、同年12月に軽巡洋艦五十鈴」へ乗り組み、砲術士兼衛兵副司令として勤務する。

その後、1944年(昭和19年)3月中旬に重巡洋艦摩耶」へ乗り組んで勤務を続けると、同年8月に海軍潜水学校普通科学生へ対する発令が行われ、同年9月4日人間魚雷回天」の搭乗員に第一特別基地隊大迫基地に着任、「回天」搭乗員として出撃までの時間を訓練にて過ごす。その後、「回天」を創案した仁科関夫中尉が滞在する大津島基地への異動を命じられ、同年10月30日に大津島基地へ入る。

その後、同年11月に光基地へ転属すると、「回天」の訓練中に殉職した搭乗員の合同慰霊祭が行われ、橋口は三好守大尉の遺影を抱いた[1]。さらに平生基地へ転属するが、「回天」特別攻撃隊員として出撃を嘆願するも、後進の指導のために教官として基地に残された。同期は出撃直前、または既に出撃し、戦死していた者もおり、死に遅れる思いで歯を食いしばりながら後進の指導に当たり、出撃日を待ちながら遺書を書いた。

出撃を前にして期友にこたえる。
共に回天の事を罷りし10人の期友、卿等は己に皇国護持突撃の先登に起ち、吾は卿等に後進指導を約し、1歳生の道を歩んだ。
吾若年多血、何ぞ此の任の重く又耐え難かりし。吾又男子なり。
顧みれば、昨年9月回天未だ世に出でざるの日、肉弾救国を叫びて大津島に赴けり。窮行滅敵こそ七生への宿志なれ。
述上の道非才且多血弱冠の吾人何ぞ耐ふるに容からんや、悩々1歳鳴呼早きかな。1歳卿等ゆきて蒼惶1歳逝く又長かりしかな。
1歳の間、風雲人事一昔を劃す。卿等を憶ひ、旧風を慕ひ、感無量今昔漠々たり。又人知るなし、昔は又今日ならず、1歳世相又変遷す。
ああ嗜懐心を語らんとして投合の知己なし、孤愁卿等が生幻を追うのみ。
憂憤或は剣をさかしまにし命を断たんと欲し、慷慨或は銃口を額にして決を期せんとす、又幾度ぞ。
鳴呼忘れ得ず卿等への誓、剣を捨て銃を投げうちて嗚咽動哭せしのみ。
幾度ぞ夜半孤り出て、奇傑晋作の詩を低吟し、滂沱たる血涙拭ふ能はざりし、大津島秋愴の光、狂嵐の最中、佐賀月明の夜半
唯卿等の生幻を追ひて鳴咽に生きしのみ。時に卿等の精霊仲天に逝くを見、卿等の生幻机上に立つを見る。

「出撃を前に」
秋を待たで 枯れゆく島の 青草は 皇国の春に 甦らなむ
矢弾つき 天地そめて 散るとても 魂かえり魂かえり 皇国護らむ

1945年(昭和20年)8月11日にようやく「回天」特別攻撃隊神州隊長として「伊-36潜水艦」とともに出撃したところ、瀬戸内海付近でアメリカ戦闘機の銃撃に遭遇し、「伊-36潜水艦」は損傷を受けた。その修理のためにへ引き返して修理を開始、神州隊は同年8月20日頃の再出撃を予定していたが、同年8月15日正午に終戦、神州隊の特攻出撃は叶わなかった。他の戦友に完全に死に遅れた橋口は、8月16日になって「回天」特別攻撃隊神州隊として日本海方面へ出撃を試みるが、日付が8月18日に変わった直後に橋口の出撃を知った海軍上層部から帰還命令を受け、平生基地へ帰還した。自らも特攻・戦死によって戦友の元へ向かいたかった橋口は、国体護持の大任を果たせなかった「敗戦」という事実の前に責任を感じ、以下の遺書と辞世の句を書いた。

新事態は遂に御聖断に決裁せられしを知る。即ち臣民の国体護持遂に足りず、御聖慮の下神州を終焉せしむるの止むを得ざるに到る。
神州は吾人の努め足らざるの故に、その国体は永遠に失はれたり。今臣道臣節いかん。国体に徴すれば論議の余地なし。
1億相率いて吾人の努め足らざりしが故に、吾人の代において神州の国体を擁護し得ず終焉せしむるに到し罪を、聖上陛下の御前に、皇祖皇宗の御前に謝し、
責を執らざるべからず。今日臣道明々白々たり。然りといえども、顧みれば唯残念の一語につく。
護持の大道にさきがけし、先輩期友を思えば、ああ吾人のつとめ足らざりしの故に、神州の国体は再び帰らず。
君が代の 唯君が代の さきくませと 祈り嘆きて 生きにしものを
噫、又さきがけし期友に申し訳なし。神州ついに護持し得ず。
後れても 後れても亦 卿達に 誓ひしことば 忘れめや

石川、川久保、吉本、久住、小灘、河合、柿崎、中島、福島、土井

これらの遺書と辞世の句を書き終えた同日午前3時、自身が乗艇していく予定だった「回天」に真っ白な第二種軍装で乗艇し、操縦席に座った後に拳銃で自身の胸を撃ち抜き、自決した。享年21。

脚注 編集

注釈
出典
  1. ^ 当時は回天の訓練中に殉職する搭乗員が多かったため、教官として厳しく訓練を指導することが求められた。

参考文献 編集

関連項目 編集

外部リンク 編集