正親町三条公秀

鎌倉時代後期の公卿。正二位内大臣。母は僧聖海の娘。子に正親町三条実数(左中将)、融観(椎野)、了空(報恩院)

正親町三条 公秀(おおぎまちさんじょう きんひで、旧字体正親町三條 公󠄁秀)は、鎌倉時代後期の公卿。正二位内大臣正親町、または八条と号す。父は権大納言正親町三条実躬、母は僧聖海の娘。

 
正親町三条公秀
時代 鎌倉時代後期
生誕 弘安8年(1285年
死没 貞治2年/正平18年8月2日1363年9月9日
改名 公秀→禅定(法名)
官位 正二位内大臣大宰権帥
主君 亀山上皇後宇多天皇伏見天皇後伏見天皇後二条天皇花園天皇後醍醐天皇光厳天皇光明天皇崇光天皇後光厳天皇
氏族 藤原北家閑院流正親町三条家
父母 父:正親町三条実躬、母:僧聖海の娘
兄弟 公秀光明天皇後宮
実継実音実数秀子、女子(四辻実郷の室、四辻季顕の母)、融観了空
特記
事項
崇光天皇後光厳天皇の外祖父、大正天皇の祖
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崇光天皇後光厳天皇は孫(秀子の子)にあたり、正親町三条家を継いだ実継の子孫にも大正天皇がいるなど、以後、正親町三条家は皇室と深い関わりを持つことになる。

大臣家の家格となる 編集

娘の秀子光厳院に嫁して崇光天皇後光厳天皇の生母となり、外戚処遇により正親町三条家で初めて内大臣に任ぜられた。公秀以降、それまで極官が権大納言であった三条家の一庶流としての家格から大臣家として扱われるようになる。

経歴 編集

以下、『公卿補任』と『尊卑分脈』の内容に従って記述する。

系譜 編集

脚注 編集

  1. ^ 正和5年(1316年)7月3日、前権中納言民部卿であった父実躬が権大納言に任ぜられる。同月22日には民部卿を止め、9月16日には権大納言を辞退。文保元年(1317年)2月24日に出家した。
  2. ^ 任大臣の当日は饗禄ならびに客座が設けられなかった。三大臣は官の席次により列すべき宣下があった。

参考文献 編集