正親町三条実継

鎌倉時代後期から南北朝時代の公卿。従一位、内大臣、按察使。正親町三条家6代。子に公海(勧修寺、報恩院)、道秀(仁和寺、慈尊院、内大臣法印)、明円(延暦寺、毘沙門堂)、両継

正親町三条 実継(おおぎまちさんじょう さねつぐ)は、鎌倉時代後期から南北朝時代にかけての公卿内大臣正親町三条公秀の子。母は不詳とされてきたが[2]後述のように弟・実音の母と同一人物ではないかと推測できる。官位従一位内大臣後八条と号す。

 
正親町三条実継
時代 鎌倉時代後期 - 南北朝時代
生誕 正和2年(1313年
死没 嘉慶2年6月24日(1388年7月27日
別名 号:後八条
官位 従一位内大臣按察使
主君 後伏見上皇花園天皇後醍醐天皇光厳天皇光明天皇後光厳天皇後円融天皇後小松天皇
氏族 正親町三条家
父母 父:正親町三条公秀、母:藤原家相の娘か
兄弟 秀子実継実音実数
四辻実郷[1]融観了空
三条公明の娘
公豊三条西公時行子
養子:左京大夫局
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経歴 編集

以下、『公卿補任』と『尊卑分脈』の内容に従って記述する。

家格の確立 編集

姉・秀子が持明院統の外戚となったことから父・公秀は内大臣に任ぜられた。実継は内大臣在任期間も長く、内大臣在任時には弟実音と息男公豊が権大納言に在任している。さらに、実継は内大臣を辞してから正親町三条家の出身では初めて従一位に叙せられた。これらのことから、実継の代に内大臣に昇進できる家格が確立されたと考えられる。持明院統に一貫して忠節を尽くしてきたことに対して任内大臣、兄弟そろっての従一位叙位という処遇がなされたと見ることができる。

系譜 編集

脚注 編集

  1. ^ 四辻季顕の母
  2. ^ 『尊卑分脈』では兄弟姉妹の中では実音だけに母の名が記述されている。
  3. ^ 叙爵時の初名は実世であった。
  4. ^ この時に実継と改名。
  5. ^ 同時に弟の実音も母の喪に服しているため、実継と実音の母は同一人物ではないかと推測できる。さらに姉の秀子も同母姉妹なのではないかと考えられる。
  6. ^ 同日、弟の実音も復任している。
  7. ^ 按察使はそのまま。なお、息男の公豊を代わりに権大納言に任じるための辞任である。

参考文献 編集