武田 勝親(たけだ かつちか、天正8年(1580年) - 天和2年6月19日1682年7月23日))は、安土桃山時代から江戸時代初期の人物。甲斐武田氏の当主・武田勝頼の三男で武田信勝の異母弟。『甲斐国志』では勝頼の三男であったことから初名が「勝三」であったとし、幼名であるとも考えられている[1]。勝千代。実名は「勝近」とする説もある[1]。『系図纂要』によれば、通称は左衛門[1]は「善悦」[1]

 
武田勝親
時代 安土桃山時代
生誕 天正8年(1580年
死没 天和2年6月19日1682年7月23日
改名 善悦
別名 武田勝三武田勝近武田勝千代
墓所 善念寺
氏族 源姓武田氏河内源氏甲斐源氏
父母 父:武田勝頼
生母:龍勝院、継母:桂林院
兄弟 武田信勝、武田勝親、貞姫
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生涯 編集

天正10年(1582年)3月、織田徳川連合軍の甲州征伐により、父の武田勝頼や兄の信勝は天目山で自害し、戦国大名としての甲斐武田氏は滅亡した[1]。『甲斐国志』『系図纂要』によれば、2歳の勝親は家臣の栗原氏栗原左衛門尉)に救出され、大菩薩峠を越え鎌倉へ落ち延びた[1]。その後、摂津国尼崎藤田村(兵庫県尼崎市)へ移り、池田信輝庇護下にて出家して「善悦」と号し、浄土真宗本願寺派の僧となったという[1]。『系図纂要』では天和2年(1682年)に享年103で死去した[1]。勝親は富田村に善念寺を創建した。善念寺太平洋戦争で焼失したが、江戸時代供養塔が現存している[1]。尼崎市の善念寺の武田家が末裔とされている。

その他 編集

『系図纂要』には「又還住」と記されていることから、武田氏滅亡・天正壬午の乱を経て甲斐へ帰国していた可能性も考えられている[1]。『摂津名所図会』では勝親を救出したのは栗原左衛門尉で、醍醐寺密経院の配慮で富田村へ移り、大坂城へ入城して織田信長と戦ったとされているが、これは誤伝であることが指摘される[1]

脚注 編集

  1. ^ a b c d e f g h i j k 丸島(2015)、p.445

参考文献 編集

  • 丸島和洋「武田勝親」 柴辻俊六平山優黒田基樹・丸島和洋編『武田氏家臣団人名辞典』東京堂出版、2015年
  • 野澤公次郎、「摂州尼崎に勝頼遺児の消息」、尼崎郷土史研究会、みちしるべ 第17号