深沢 勝幸(ふかざわ かつゆき、1612年慶長12年)- 1694年9月5日元禄7年7月16日))は、江戸時代前期の捕鯨家であり篤志家である[1][2]。深澤儀太夫勝幸とも称する。

経歴・人物 編集

父、深澤儀太夫勝清(初代儀太夫)の子として肥前大村に生まれる[1][2]。先祖は、肥前国杵島郡長島庄(現武雄市)の潮見城を居城とした橘氏の分家である中橋氏。戦国時代に波佐見村長尾(現波佐見町永尾郷)、および波佐見村中尾(現中尾郷)に移り住んだ。父、勝清は、中尾に生まれ中尾姓を名乗るが、大村藩主より深澤の姓を賜り深澤儀太夫勝清と改名した。勝清は、大村藩主に仕えた捕鯨家で[2]紀伊熊野太地で学んだを捕獲する捕鯨法を故郷に伝授した[2]。この後継者として勝幸が2代目儀太夫を名乗り[1]、父から教わった捕鯨法を用いて五島列島で捕鯨を実施した[1]。なお、当時捕鯨は職業の中で最も収益が高額であったといわれている[2]

1677年延宝5年)に熊野太地で太地角右衛門が発案したを用いた捕鯨法を学び[2]1684年延享元年)には古座屋の3代目の主であった深沢勝実を通して[2]、帰郷後に肥前の漁師に伝授した[2]。後に父と共に野岳湖資金による援助に携わったり[1]溜池新田の開発に携わる等篤農家としても活躍した[2]。晩年には出島摂津大坂中之島交易関係の仕事にも携わった[2]

脚注 編集

  1. ^ a b c d e デジタル版 日本人名大辞典+Plus(講談社)『深沢勝幸』- コトバンク
  2. ^ a b c d e f g h i j 朝日日本歴史人物事典(朝日新聞出版)『深沢勝幸』- コトバンク