清水浜臣

1776-1824, 江戸時代後期の医師、歌人、国学者

清水 浜臣(しみず はまおみ、安永5年(1776年) - 文政7年閏8月17日1824年10月9日))は、江戸時代後期の医師、歌人国学者。通称は玄長。号は泊洦舎月齋など。姓は藤原。子に清水光房。

清水 浜臣
清水浜臣(谷文晁・筆)
人物情報
別名 通称:玄長
号:泊洦舎、月齋
生誕 安永5年(1776年)??月??日(1776年????日)
日本の旗 日本武蔵国江戸飯田町
死没 文政7年閏8月17日1824年10月9日
国籍 日本の旗 日本
両親 父:清水道円
子供 清水光房
学問
時代 江戸時代後期
活動地域 江戸
学派 江戸派
研究分野 国学
主要な作品 『古言梯再考増補標註』など
影響を受けた人物 村田春海
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略歴 編集

武蔵国江戸飯田町の医者清水道円の子として生まれる。早くに父を亡くす。その後、17歳にして江戸の和歌の大家である村田春海の門下生となり、歌を学ぶ。上野に居を構えて家業を継ぎ医者となるも、古学の研究も続けた。多くの著作を手がけ、国学者として著名となる。

多くの門人を持ち、幅広く交流を持ったため、人脈も広かった。後妻は三井親和の娘。

49歳で没した。墓所は武蔵国入間郡入間川村之内、田中村(現在の埼玉県狭山市狭山[1]。父道円は江戸に出る前この地で医師をしていた)の安穏寺[注釈 1]

その他 編集

  • 同じく春海の門下生であった本庄宿森田豊香とも交流があり、豊香の子である豊文は浜臣の弟子である。浜臣は本庄の門人を指導しに、たびたび森田家に泊まりに来ていた。
  • 小山田与清とは犬猿の仲で、国学上の問題でも悉く意見が対立するほどであったという[2]。これは春海の死後、遺稿の出版の主導権をめぐって確執が生じたことに端を発する[3]。両者の不仲は当時から有名であったらしく、大田南畝の『半日閑話』にも取り上げられている[3]

脚注 編集

注釈 編集

  1. ^ 明治に廃寺。平成に近傍の天岑寺境内に再興した。

出典 編集

  1. ^ 清水濱臣の墓狭山市指定文化財〔記念物・史跡〕昭和48年(1973年)3月1日指定 狭山市
  2. ^ 揖斐高 (2009).
  3. ^ a b 田中康二 (2010), p. 135(初出:田中康二 2007

参考文献 編集

図書
  • 揖斐高『近世文学の境界:個我と表現の変容』岩波書店、2009年2月。ISBN 9784000225687 
  • 田中康二『江戸派の研究』汲古書院、2010年2月。ISBN 9784762935732 
雑誌
  • 田中康二「江戸派の出版」『神戸大学文学部紀要』第34号、2007年3月、45-77頁。 

外部リンク 編集