渋沢 紀美(しぶさわ のりよし、1927年昭和2年〉2月 -1928年昭和3年〉4月9日)は、子爵・渋沢敬三の次男。曽祖父は渋沢栄一、祖父は渋沢篤二[1]。兄は現渋沢家当主の渋沢雅英[1]。妹に佐々木紀子と生物学者の服部黎子[1]

しぶさわ のりよし

渋沢 紀美
(澁澤 紀美)
生誕 1927年
死没 1928年4月9日
墓地 谷中霊園
国籍 日本の旗 日本
父・渋沢敬三
母・渋沢登喜子
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略歴 編集

1927年、子爵・渋沢栄一の嫡孫・渋沢敬三(後に子爵となる)と妻登喜子の次男として東京府に生まれる[2]。「紀美」の名付け親は父の敬三であった[2]。名前の由来は曾祖父・栄一の父・渋沢市郎右衛門である「美雅」であった[2]。1928年、流感のため満1歳2か月で死去した[2]

兄の渋沢雅英(渋沢家当主、渋沢栄一記念財団相談役)は、「紀美が死去したのは桜の季節(春)であったため、母である登喜子は晩年に至るまで『桜の花を見るとこの子を思い出す』と言っていた。」としている[2]

親族 編集

 
曾祖父の渋沢栄一。
 
父の渋沢敬三。
  • 曾祖父・栄一1840年 - 1931年、子爵、第一銀行頭取、東京市養育院長) - 住所は東京市深川区福住町から、日本橋区兜町、東京府北豊島郡滝野川町西ケ原
  • 曾祖母・千代(1841年 - 1882年、尾高惇忠の妹、栄一の従妹)- 栄一の同郷の幼馴染み、祖父・篤二の実母。
  • 祖母・敦子1880年 - 1943年伯爵橋本実梁の娘で、橋本実頴の妹) - 夫篤二の廃嫡が正式に決まった直後に敬三ら3人の子供を連れて三田綱町の屋敷を出て、数年間にわたり本郷西方町、高輪車町、駒込神明町などの小さな借家を転々とする。
  • 祖父・篤二
    明治5年(1872年)生 - 1932年(昭和7年)10月没。
    栄一・千代夫妻の長男。1913年に栄一の決定により篤二を廃嫡とし、篤二長男の敬三を嫡孫とした。
  • 父・敬三1896年 - 1963年子爵、渋沢同族社長。澁澤倉庫取締役、第一銀行副頭取、日本銀行総裁、大蔵大臣) - 東京市深川福住町生まれ。
  • 叔父・信雄1898年 - 1967年、福本書院、独逸書輸入書籍商、澁澤倉庫監査役)- 東京市深川福住町生まれ。
  • 叔父・智雄1901年 - 1947年、澁澤倉庫常務取締役)- 東京市深川福住町生まれ。

系図 編集

脚注 編集

  1. ^ a b c 父・渋沢敬三 〔4〕 / 渋沢雅英 渋沢敬三アーカイブ
  2. ^ a b c d e 父・渋沢敬三 〔3〕 / 渋沢雅英 渋沢敬三アーカイブ

関連項目 編集