火の車(ひのくるま)は、日本の怪異[4]妖怪)。平安時代に成立した『今昔物語集』を始め、いずれも江戸時代前期の文献である『奇異雑談集』『新著聞集』『譚海』『因果物語』などに記述が見られる[4]

西村市郎右衛門編著『新御伽婢子』より「火車の桜」[1]
鈴木正三門人編著『平仮名本 因果物語』より「生ながら、火車にとられし女の事」[2]
春名忠成『西播怪談実記』より「龍野林田屋の下女火の車を追ふて手并着物を炙し事」[3]

概要 編集

悪事を犯した人間が死を迎えるとき、牛頭馬頭などの地獄の獄卒が、燃えたぎる炎に包まれた車を引いて迎えに現れるというもの。また文献によっては死に際ではなく、生きながらにして迎えが現れるといった事例も見られる[4]

『平仮名本 因果物語』には「生ながら、火車にとられし女の事」と題し、以下の話がある。河内国八尾(現・大阪府八尾市)にある庄屋の妻は強欲な性格で、召使いに食事を満足に与えず、人に辛く当たっていた。あるとき、その庄屋の知人が街道を歩いていると、向こうから松明のような光が飛ぶように近づいて来た。光の中では、身長8尺(約2.4メートル)の武士のような大男2人が、庄屋の妻の両手を抱えており、そのまま飛び去って行った(画像参照)。彼は恐ろしく思って庄屋の様子を尋ねると、庄屋の妻は病気で数日間寝込んでおり、その3日目に死んでしまった。この妻は行いが良くなかったため、生きながらにして地獄へ堕ちたといわれたという[2]

また、怪談集『西播怪談実記』にも「龍野林田屋の下女火の車を追ふて手并着物を炙し事」と題し、享保年間の火の車の話がある。播磨国揖保郡龍野町(現・兵庫県たつの市)の林田屋という商家で、以前から店に老婆とその娘が出入りしていたが、老婆が店に滞在中に風邪をひき、次第に症状が重くなった。手当ての甲斐もなく高熱が続き、ついには錯乱状態となった。娘は嘆き悲しんでそばを片時も離れなかったが、ある夕暮れに「ああ、悲しい。母を乗せて行ってしまうとは」と慌てて外へ駆け出した。商家の人々は娘が悲嘆のあまり正気を失ったかと思い、娘を引き止めると、たちまち娘が気絶したので、口に水を注いで正気に戻した。娘が盛んに熱がっており、見ると袖の下が火で焼け焦げていた。店へ戻ると、老婆は既に死んでいた。娘は、臨終のときになぜそばにいなかったのかと尋ねられると「絵で見た鬼の姿のような者が燃え盛る火の車を引いて、母を火の中へ投げ込んで連れ去って行った(画像参照)。取り戻したい一心で追いかけたものの車は空へ飛び去ってしまい、後のことは覚えていない」とのことだった[3]

後に火の車は、葬式の場や墓場から死体を奪う猫の妖怪・火車と混同されるようになり、前述の『因果物語』や『新御伽婢子』などの話集では火の車のことが「火車」の題で述べられており、佐脇嵩之の妖怪画『百怪図巻』でも火の車を引く獄卒の姿が「くはしや」(火車)の題で描かれている例も見られる(百怪図巻を参照)。近代では火車の名は地獄の獄卒ではなく、前述の猫の妖怪を指す方が多い[4]

転用 編集

  • 家計や経済状況の苦しさを「火の車」と表現するのは、火車または本項の「火の車」からの転用である。火の車に乗せられた者が苦痛を味わうことや、苦に満ちた世界(娑婆)を仏教語の「火宅」(火事に遭った家の意)と関連づけたことが由来とされている[5]
  • 内燃機関を搭載した自動車から火災が発生するさまを見て「正しく火の車だ」という転用もする。

脚注 編集

  1. ^ 西村市郎右衛門編著 著「新御伽婢子」、高田衛編・校中 編『江戸怪談集』 下、岩波書店岩波文庫〉、1989年、213頁。ISBN 978-4-00-302573-4 
  2. ^ a b 鈴木正三門人編著「平仮名本 因果物語」『江戸怪談集』 下、180-182頁。 
  3. ^ a b 春名忠成 著「西播怪談実記」、小栗栖健治・埴岡真弓 編『播磨の妖怪たち 「西播怪談実記」の世界』神戸新聞総合出版センター、2001年、83-86頁。ISBN 978-4-343-00114-6 
  4. ^ a b c d 村上健司編著『妖怪事典』毎日新聞社、2000年、286-287頁。ISBN 978-4-620-31428-0 
  5. ^ 火の車”. 語源由来辞典. ルックバイス. 2010年1月10日閲覧。