見坊 田鶴男(けんぼう たづお、1883年明治16年〉1月6日[1] - 1955年昭和30年〉1月20日[1])は日本政治家岩手県盛岡市長。

来歴

編集

盛岡市出身[1][2]。盛岡中学校(現・岩手県立盛岡第一高等学校)卒[1]岩手県庁に入り、岩手郡書記となる[1]内務省警保局書記を経て[1]青森県北津軽郡長、福島県相馬郡長を歴任した[2]1927年満州に渡り、遼陽鞍山の各事務所長を経て、関東州果樹組合専務理事に就任した[2]1936年に退職し帰国した。

1939年に盛岡市長に就任。盛岡市は厨川中野本宮浅岸と合併。太平洋戦争が始まり、戦時体制下の市政運営となり、困難を極めた[2]。市長は1943年に辞職した。

戦後、公職追放となり[3]、追放解除後の1955年に死去した。

脚注

編集
  1. ^ a b c d e f 『岩手人名辞典』103頁。
  2. ^ a b c d 『日本の歴代市長』第1巻、230頁。
  3. ^ 公職追放の該当事項は「翼賛岩手県事務局長庶務部長盛岡市」。(総理庁官房監査課 編『公職追放に関する覚書該当者名簿』日比谷政経会、1949年、339頁。NDLJP:1276156 

参考文献

編集
  • 総理庁官房監査課編『公職追放に関する覚書該当者名簿』日比谷政経会、1949年。
  • 歴代知事編纂会編『日本の歴代市長』第1巻、歴代知事編纂会、1983年。
  • 『岩手人名辞典』(財)新渡戸基金、2009年。