花山院 家賢(かさんのいん いえかた)は、南北朝時代公卿歌人大納言花山院師賢の子。官位従三位権中納言北朝)、正二位内大臣南朝)。始め北朝に仕えたが、失脚後は南朝で栄達した。妙光寺と号する。

 
花山院家賢
時代 南北朝時代
生誕 嘉暦元年(1326年[1]?
死没 正平21年/貞治5年6月23日[2]
1366年7月31日
別名 妙光寺内大臣
官位 従三位権中納言北朝
正二位内大臣南朝
主君 後醍醐天皇光厳天皇→後醍醐天皇→光明天皇崇光天皇後光厳天皇後村上天皇
氏族 花山院家
父母 父:花山院師賢、母:花山院家定の娘
兄弟 経賢信賢家賢、三条局、女子
某女
長賢長親師兼、簡中元要
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経歴 編集

元弘2年/正慶元年(1332年)討幕に関与した父師賢が流罪地で客死したものの、母方の庇護があったためか、北朝の下で官位は順調に進み、侍従右近衛中将春宮権亮などを歴任。正平2年/貞和3年(1347年)11月従三位に叙されて公卿に列し、正平3年/貞和4年(1348年)4月参議に任じられ、正平4年/貞和5年(1349年)12月の崇光天皇即位式に際しては親王代を務めた。正平5年/観応元年(1350年)10月大嘗会御禊行幸の供奉に関して「子細」を申し出たために職を止められたが、翌正平6年/観応2年(1351年)6月花山院長定(母の弟)の推挙で還任。南朝による正平一統後も北朝に留まり、正平8年/文和2年(1353年)12月権中納言に任じられ、正平9年/文和3年(1354年)4月左衛門督を兼ねた。ただ、閏10月には何らかの事情で辞職しており、以降北朝での昇進は見られない。正平10年/文和4年(1355年後光厳天皇の避難する近江国行宮成就寺)への不参を咎められ、徳大寺公清らと共に家領を一時没収される処分を受けた[3]

正平12年/延文2年(1357年)1月、遂に兄・信賢と共に南朝(当時の行宮金剛寺)へ参候し、再び家領を没収された[4]。南朝では元の官位のまま任用されたらしく、中納言から権大納言を経て、正平20年/貞治4年(1365年右近衛大将として所見[5]。翌正平21年/貞治5年(1366年内大臣に至ったが、同年6月23日[2]現職で薨去した。享年41か。

南朝歌壇における中心歌人であり、自邸で百首歌を主催した他、正平18年(1363年)の『内裏名所百首』・『探題五十首』、同20年(1365年)の『内裏三百六十首歌』・『探題七百首』などに詠進した。准勅撰集新葉和歌集』には「妙光寺内大臣」として52首が入集し、また、勅撰集新続古今和歌集』にも1首が入集する。

系譜 編集

脚注 編集

  1. ^ 公卿補任』記載の年齢から逆算すると元徳2年(1330年)となるが、同書は嘉暦3年(1328年)より官歴を起こしているために矛盾が生じる。
  2. ^ a b 月日は『南朝編年記略』『花山院家譜』によるが、『南朝公卿補任』『系図纂要』には5月、『南方紀伝』には閏6月とあって諸書で一定しない。
  3. ^ 園太暦』文和4年5月22日条、8月5日条
  4. ^ 『園太暦』延文2年正月27日条、『園太暦目録』同年2月2日条
  5. ^ 正平二十年三百六十首

参考文献 編集

  • 小木喬 『新葉和歌集―本文と研究』 笠間書院、1984年、ISBN 9784305101815
  • 金井静香 「公家領安堵の変遷」(『中世公家領の研究』 思文閣出版〈思文閣史学叢書〉、1999年、ISBN 9784784209965。初出は1995年)
  • 伊藤伸江 「花山院一族の『新葉和歌集』入集歌(二) 花山院家賢」(『愛知県立大学説林』第57号 愛知県立女子大学国文学会、2009年3月、NCID AN00131287

関連項目 編集