「ビラ・スタンモーア夜戦」の版間の差分
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|conflict=[[太平洋戦争]] / [[大東亜戦争]]
|date=[[1943年]][[3月5日]]
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|strength1=駆逐艦2
|strength2=軽巡洋艦3<br />駆逐艦3
|casualties1=駆逐艦2沈没<br />戦死・行方不明313
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}}
'''ビラ・スタンモーア夜戦'''(ビラ・スタンモーアやせん)は[[太平洋戦争]]中の1943年3月5日に[[ソロモン諸島]]で生起した[[海戦]]。[[ケ号作戦|ケ号作戦(ガダルカナル撤退)]]後、日本軍の新たな拠点となった[[コロンバンガラ島]]への輸送に従事していた駆逐艦2隻と、コロンバンガラ島への[[艦砲射撃]]を企図した[[アメリカ海軍]]の巡洋艦部隊が交戦し、日本側の駆逐艦2隻が一方的な攻撃を受けて沈没した。
「ビラ・スタンモーア夜戦」の海戦名はアメリカ側による呼称で<ref>[[#写真・太平洋戦争]]p.168</ref>、日本側では一方的な敗戦であるためか海戦名は付されていないとする<ref name="m">[[#木俣水雷]]p.308</ref>。ウィキペディア英文版での呼称はブラケット水道海戦({{lang-en|Battle of Blackett Strait}} )となっている。{{仮リンク|ブラケット水道|en|Blackett Strait}}とはコロンバンガラ島と南隣の{{仮リンク|アルンデル島|en|Arundel Island}}の間にある水路の名称であるが、戦闘自体はブラケット水道の東口、[[クラ湾]]に接した海域で行われた。また、戦史研究家{{仮リンク|サミュエル・E・モリソン|en|Samuel Eliot Morison}}は自身の編集による戦史(通称「モリソン戦史」)で「この戦闘は時々クラ湾の第一合戦と呼ばれるが、公式の名称は附與されていない」と記している<ref>[[#村雨の最期]]p.106</ref>。
==背景==
[[ガダルカナル島の戦い]]も終末期に差し掛かった1942年11月末、アメリカ軍は[[ムンダ (ソロモン諸島)|ムンダ]]に日本軍が新たな飛行場を建設中であることを知る<ref name="a">[[#ポッター
そこで、1943年に入るや否や、アメリカ軍南太平洋部隊司令官[[ウィリアム・ハルゼー]]大将は水上部隊にムンダとコロンバンガラ島への艦砲射撃を繰り返し行わせ、同時に爆撃や航空機による[[機雷]]投下も行った<ref name="
一方、アメリカ軍もコロンバンガラ島砲撃のためこの日艦隊を出撃させていた<ref>[[#木俣水雷]]p.305</ref><ref>[[#O'Hara ]]p.167</ref>。当時、ムンダおよびコロンバンガラ島を砲撃するアメリカ艦隊には二つの任務部隊があった。一つは{{仮リンク|ヴォールデン・L・エインスワース|en|Walden L. Ainsworth}}少将の第67任務部隊、もう一つがアーロン・S・メリル少将の第68任務部隊であった<ref name="
==海戦参加艦艇==
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==戦闘経過==
「村雨」と「峯雲」は3月5日8時30分に[[ブイン (パプアニューギニア)|ブイン]]沖に到着して一息つく<ref name="g">[[#村雨の最期]]p.14</ref>。「村雨」では、第二駆逐隊司令橘正雄大佐、駆逐艦長[[種子島洋二]]少佐ら艦の幹部が第一根拠地隊司令部を訪問したり、「村雨」に乗り組んだ[[海軍兵学校卒業生一覧 (日本)#71期|海軍兵学校71期]]の候補生が[[ショートランド諸島|ショートランド]]の水路見学<ref group="注釈">候補生らが「初めて入港した港湾では必ず行われる実習項目となっており、ガンルーム士官が短艇指揮として陸上との連絡、上陸員の送迎を行う上に必要な実施教育だった」([[#村雨の最期]]p.14)</ref>に出かけたりした<ref name="g"/>。また、「村雨」はここでさらに米を積むよう命じられていたが、米は艦底に積んでいてすぐには出せず、[[乾パン|乾麺麭]]を100箱積むこととなった<ref name="g"/>。16時、「村雨」と「峯雲」はブイン沖を出撃し、コロンバンガラ島へ向かった<ref name="h"/><ref>[[#村雨の最期]]p.17</ref>。「村雨」と「峯雲」は、[[ベララベラ島]]東方から[[ベラ湾]]とブラケット水道を通過し、予定より30分遅れの21時30分にデビル島泊地に到着<ref name="h"/><ref name="i">[[#村雨の最期]]p.18</ref>。直ちに6隻から7隻ほどの[[大発動艇|大発]]が陸上から出てきて揚陸作業を行う<ref name="i"/>。大発群を指揮した第八連合特別陸戦隊の副官は、食糧や弾薬を大発に直接積み込んでほしいと要望したが、出港時間を遅らせれば空襲を受けやすくなることもあり、常套手段だったドラム缶を海中に放り込んで陸上側がこれを回収する方法で物資を揚陸させた<ref name="i"/>。1時間後には全ての作業が終了し<ref name="h"/>。「村雨」と「峯雲」は速力12ノットでコロンバンガラ島の東岸沿いを北上してブインへの帰途に就く<ref name="j">[[#戦史96]]p.75</ref><ref name="l">[[#村雨の最期]]p.19</ref>。この出港の際、「村雨」と「峯雲」の艦首が潮と風の流れで西側に向いていたので、そのまま往路と同じコースを引き返す事も考えられたが、ニュージョージア海峡に出たら、ブイン、ショートランドまでは一直線であるという事もあって、東向きに回頭した上でコロンバンガラ島の東岸沿いを北上するルートが採られたのである<ref name="l"/>。「峯雲」は一旦北向きに後進してから東向きに回頭し、「村雨」の後に続いた<ref>[[#村雨の最期]]pp.19-20</ref>。
しかし、「村雨」と「峯雲」の動きはすでにガダルカナル島の通信隊によって20時30分頃に探知ののち通報されており<ref name="e"/><ref>[[#フェーイー]]p.35</ref>、また、「ブラックキャット」機のうちの1機が泊地に進入する「村雨」と「峯雲」を探知していた<ref name="e"/>。第68任務部隊は22時過ぎにクラ湾に入り、戦闘配置を令して単縦陣、速力20ノットの態勢で南西方向に進む<ref name="e"/>。22時57分、「ウォーラー」のレーダーは「ブラックキャット」機が探知したものと思しき目標を探知し、やがて「島が動いている」とのレーダー員の報告により、目標が2つあることが分かった<ref>[[#村雨の最期]]p.94</ref>。「ウォーラー」は23時1分に魚雷を発射<ref name="e"/>。これに続いて巡洋艦群もレーダー射撃を開始した<ref name="e"/>。「モントピリア」の元乗員ジェームズ・J・フェーイーは、「モントピリア」が最初に砲撃を開始し、最初に6インチ砲弾を命中させたと主張する<ref name="k">[[#フェーイー]]p.36</ref>。フェーイーはまた、第68任務部隊の砲撃の様子は「船という船がぶっ放す[[アメリカ独立記念日|7月4日の独立記念日]]みたいだった」と回想している<ref name="k"/>。
第68任務部隊は「村雨」と「峯雲」に対する砲撃を止め、その5分後には陸上砲撃の態勢を整えてコロンバンガラ島への艦砲射撃を開始する<ref name="e" />。海岸部の軍事施設と兵舎、滑走路を目標に16分間に及ぶ艦砲射撃を実施<ref name="e" />。その間、日本軍に沿岸砲台から反撃があったものの第68任務部隊を確認する事ができず、逆にその一つが砲撃により破壊された<ref name="e" />。上空の「ブラックキャット」機の弾着観測および艦からの観測により、目標は徹底的に破壊され、資材が炎上しているのが確認された<ref name="e" /><ref name="g" />。砲撃を終えてクラ湾を出ようとする時に再び砲撃を受けたが、損害は全くなかった<ref name="i">フェーイー, 37ページ</ref>。また、別のアメリカ駆逐艦3隻が第68任務部隊に呼応してムンダの飛行場に対する艦砲射撃を行った<ref name="e" />。フェーイー曰く、「[[ハドソン川]]をさかのぼって[[ニューヨーク]]の町とその船を砲撃して、そして反転して海に向かう」<ref name="i" />ような作戦を終えた第68任務部隊は、3月9日夕刻にエスピリトゥサントに帰投した<ref name="ee" />。▼
第68任務部隊が戦闘を開始した23時、針路0度で21ノットの速力で北上を続けていた「村雨」が後続の「峯雲」の姿を確認して間もなく、[[ニュージョージア島]]の方向に閃光を目撃する<ref>[[#村雨の最期]]pp.20-21</ref>。その閃光について「村雨」の種子島駆逐艦長は「[[雷|いなびかり]]だろう」と言ったが、橘司令は「いや、味方の陸上砲台が射ったのかも知れない」と言う<ref name="n">[[#村雨の最期]]p.21</ref>。「村雨」砲術長の鹿山誉大尉が「当りもしないのに陸上砲台が射つとは」と思った次の瞬間、再び閃光が走り、前後して左舷後方200メートルぐらいのところに水柱が立ち、「村雨」の船体が振動した<ref name="n"/>。「峯雲」は水柱にさえぎられて姿が見えず、色めきだった「村雨」は戦闘配置を令して「対空戦闘」に備えた<ref name="o">[[#村雨の最期]]p.22</ref>。「対空戦闘」は鹿山砲術長の判断によるものだったが、これを聞いた方位盤射手が「砲術長、水上艦艇ではないでしょうか」と進言し、間もなく発砲する第68任務部隊の姿を認めて水上砲戦に切り替えられた<ref>[[#村雨の最期]]pp.22-23</ref>。「村雨」は右砲戦で応戦するも、被弾により方位盤と電気系統を損傷して二番煙突からは火が吹く有様であった<ref>[[#村雨の最期]]p.24</ref>。一方的な被弾は続き、方位盤は崩れて一番砲塔も弾薬庫の誘爆により大火災となって、「村雨」は機銃のみで応戦している状態だった<ref>[[#村雨の最期]]pp.24-25</ref>。さらに魚雷の雷跡が「村雨」に向かっていったが、魚雷は「村雨」の艦底を通過してコロンバンガラ島の方向に去っていった<ref name="p">[[#村雨の最期]]p.25</ref>。二番煙突の火災による魚雷の誘爆を防ぐべく魚雷の投棄が試みられるも成功せず、二番砲を人力操作で第68任務部隊の方向に向けようとしたが、「村雨」は右側に大きく傾斜して沈没が避けられない状態となった<ref>[[#村雨の最期]]pp.26-28</ref>。火勢も大きくなり、乗組員は順次退艦するよう促される<ref>[[#村雨の最期]]p.28,30</ref>。橘司令、種子島駆逐艦長も海中に飛び込み、「村雨」は左舷側を上にして、海中に飛び込んだ乗組員からの「村雨万歳」の声とともに沈没した<ref>[[#村雨の最期]]pp.30-32</ref>。第四水雷戦隊の記録では、「村雨」は「二三二五航行不能ニ陥リ二三三〇沈没セリ」とある<ref name="q">[[#四水戦1803]]p.15</ref>。
「峯雲」の状況はあまり定かではない。「村雨」が戦闘配置を令したころには「轟沈したのか水柱と黒煙に包まれている」状態であり<ref name="o"/>、一番砲の火災を確認した時には「もう何処にも見当たらなかった」という状態であった<ref name="p"/>。生還した「峯雲」砲術長徳納浩大尉の回想では、「峯雲」もまた「村雨」と同様に「対空戦闘」だと判断しており<ref>[[#村雨の最期]]p.99</ref>、「砲戦の号令をかけるのがやっと」の状態で一方的に撃たれ、第68任務部隊の「第一斉射から三分以内に沈み始めた」とする<ref>[[#村雨の最期]]p.103</ref>。徳納砲術長を初めとする「峯雲」の生存乗組員は海中から、発砲する「村雨」の姿を前方に見て「なんとかやってくれるだろう」と思っていた<ref>[[#村雨の最期]]p.102,108,123</ref>。第四水雷戦隊の記録は「峯雲交戦直後大火災二三一五沈没」と伝えている<ref name="q"/>。
▲第68任務部隊は「村雨」と「峯雲」
{{quotation|今年は[[聖パトリックの祝日|聖パトリックの日]]が早くきたようで、そのメリル司令官パトリックは[[ヘビ]]ではなく日本軍を退治したというわけだ。|ジェームズ.J.フェーイー『太平洋戦争アメリカ水兵日記』37ページ}}
メリル少将は「村雨」と「峯雲」を[[軽巡洋艦]]であると判断しており、ハルゼー大将への緊急報告でも「軽巡二隻撃沈」と記したが、その文言に続いて「今年は獲物制限の要なかるべし、陸上砲撃成功」という文言が付されていた<ref>[[#村雨の最期]]p.106</ref>。「軽巡二隻撃沈」と「陸上砲撃成功」はさて置いて、真ん中の「今年は獲物制限の要なかるべし」については、その意味は定かではない<ref group="注釈">「漸次北上の地歩を固めつつあった時であり、弾薬の補給も意の如くならないので射撃の制限を加えたのかもしれない。しかしむしろ敵は無益な交戦を避けて、極力当面の作戦目的たる基地の推進に重点を置いたと考えるのが正しいであろう」という見方が存在する([[#村雨の最期]]pp.106-107)。この時期、南太平洋部隊は艦船と航空機が不足気味ではあったが([[#ポッター]]pp.344-345)、弾薬に関する制限が実際にあったかどうかについては不明である。</ref>。
==生還==
3月6日未明、[[水上機母艦|特設水上機母艦]]「[[神川丸 (特設水上機母艦)|神川丸]]」([[川崎汽船]]、6,853トン)の水上偵察機が第68任務部隊の捜索のためクラ湾方面を飛行中、クラ湾に直径300メートルほどの油紋2つを確認し、午前には[[零式水上観測機]]2機が同じ地域を飛行して、コロンバンガラ島南端の60度7海里の地点から北の方向に幅約1,000メートル、長さ10海里にも及ぶ油帯を発見した<ref>[[#四水戦1803]]pp.14-15</ref><ref>[[#神川丸]]p.6</ref>。
その頃、生存の「村雨」と「峯雲」の乗組員は泳いだり、浮遊物につかまりながらコロンバンガラ島を目指した。「赤い屋根の家」<ref group="注釈">「椰子林を管理していた人々の家らしい」([[#村雨の最期]]p.47)。目立った建物だったらしく、「潮流に遮られ、泳げども泳げども近づかない赤い屋根の魔法にとりつかれて、遂に力盡き果てコロンバンガラ島の海に「村雨」を追って沈んでしまった」者もいた([[#村雨の最期]]p.58)。</ref>にたどり着いた乗組員は、前日夜に物資等を揚陸した地点からやってきた大発に収容され、大発はコロンバンガラ島の北端まで捜索した<ref>[[#村雨の最期]]pp.49-51</ref>。また、「村雨」の[[カッター (船)|カッター]]が、「村雨」の生存者を上陸させた後海上に引き返し、「峯雲」の徳納砲術長らを収容してコロンバンガラ島に上陸させた<ref name="s">[[#村雨の最期]]p.51</ref>。3月6日の時点では橘司令、種子島駆逐艦長など高級将校の安否が不明だったため、その時点では生存者の中で最先任だった「村雨」の鹿山砲術長が第八連合特別陸戦隊に顛末を報告することになっていたが、橘司令と種子島駆逐艦長は3月7日になって相次いで救助された<ref name="s"/>。その一方で、コロンバンガラ島にたどり着いた者の中には、[[熱傷|やけど]]に耐えかねて海水を飲んで絶命した負傷者もいた<ref>[[#村雨の最期]]p.54</ref>。最後の生存者は3月8日に収容された<ref>[[#村雨の最期]]p.57</ref>。「村雨」は橘司令、種子島駆逐艦長以下134名が救助されたが<ref name="u">[[#四水戦1803]]p.17</ref>、3月12日までに2名が戦病死し、3月12日の再確認では132名生存、戦死51名、行方不明52名と記録された<ref>[[#村雨の最期]]p.59,71</ref>。「峯雲」は徳納砲術長ら45名が救助されたのみで、駆逐艦長上杉義男中佐以下残りの乗組員210名は戦死した<ref name="u"/><ref name="m"/>。生存者はコロンバンガラ島輸送に来た駆逐艦「[[浦波 (吹雪型駆逐艦)|浦波]]」、「[[敷波 (吹雪型駆逐艦)|敷波]]」に分乗し、警戒担当の「[[雪風 (駆逐艦)|雪風]]」や水上偵察機の掩護を得て3月9日未明にブイン沖に到着<ref>[[#村雨の最期]]p.59</ref>。橘司令と種子島駆逐艦長は「雪風」に移って先にラバウルに帰還し、残る生存者も午後にはブインを発って3月10日朝にラバウルに到着した<ref>[[#村雨の最期]]pp.59-61</ref>。
ラバウルに帰還後、直ちに[[第八艦隊 (日本海軍)|第八艦隊]]主宰による研究会が開かれた。研究会には第八艦隊司令長官[[三川軍一]]中将、同艦隊参謀[[神重徳]]大佐、[[南東方面艦隊]]司令長官[[草鹿任一]]中将ら幕僚の面々が列席していたが<ref>[[#村雨の最期]]p.61</ref>、「会場内の雰囲気は研究会を通り越して査問会だった」<ref name="v">[[#村雨の最期]]p.62</ref>。橘司令らが戦闘経過を報告したが、艦隊幕僚らは[[第一次ソロモン海戦]]、[[ルンガ沖夜戦]]などの勝ち戦を引き合いに出し、「夜戦には絶対負けない駆逐艦が、得意とする夜戦でやられるとは何事ぞ」<ref name="v"/>と罵倒したり、レーダー射撃に理解を示そうとはしなかった<ref>[[#村雨の最期]]p.64</ref>。やがて、橘司令は「[[五月雨 (駆逐艦)|五月雨]]」を新しい司令駆逐艦として「五月雨」に移っていき<ref>[[#村雨の最期]]p.73</ref>、他の「村雨」と「峯雲」の生存者も順次ラバウルを後にして新任務に就いたり、日本本土へと帰還していった<ref>[[#村雨の最期]]pp.72-84</ref>。
==海戦の後==
ビラ・スタンモーア夜戦ののちも、ムンダおよびコロンバンガラ島への「東京急行」が遅れる事は当面なかった<ref>[[#ポッター
また、ビラ・スタンモーア夜戦に勝利し多少進歩したとはいえ、アメリカ艦隊が日本艦隊に、特に夜戦分野で対抗するにはもう少し努力が必要であると考えられた<ref name="
==アメリカ潜水艦グランパス==
{{seealso|グランパス (SS-207)}}
「村雨」と「峯雲」の一方的な喪失は、次のような憶測を生み出した。当時、アメリカ潜水艦「[[グランパス (SS-207)|グランパス]]」 (''USS Grampus, SS-207'') は2月11日に[[ブリスベン]]を出撃して以降、僚艦「[[グレイバック (潜水艦)|グレイバック]]」 (''USS Grayback, SS-208'') とともにソロモン諸島方面で行動していたが、ついに哨戒から帰らなかった。海戦のあった3月5日夜、「グレイバック」は[[ベラ湾]]近海で「グランパス」と思しき潜水艦を発見する<ref name="x">[[#SS-208, USS GRAYBACK]]p.235</ref>。それから間もなくして、「グレイバック」に「[[ギゾ|ギゾ海峡]]の方向に高速で航行する2隻の駆逐艦を迎え撃て」との指令が入る<ref name="x"/>。その3時間後、「グレイバック」はコロンバンガラ島の南端越しに発砲炎や閃光を見る<ref name="x"/>。その発砲炎や閃光の正体は分からなかったが、「グランパス」に関わっているものだと判断してベラ湾での哨戒を続けた<ref name="x"/>。やがて「グレイバック」は、3月6日夜に哨区の移動を命じられてベラ湾を去った<ref name="x"/>。「2隻の駆逐艦」を「村雨」と「峯雲」、「発砲炎や閃光」を夜戦によるものとするならば、「グレイバック」はビラ・スタンモーア夜戦の一部始終をコロンバンガラ島越しに観察していたことになる。
話はここから飛躍する。要約すれば、「「村雨」と「峯雲」は「グランパス」に出くわして撃沈したが、直後に第68任務部隊に攻撃されて沈没した」という論法となった<ref>[[#木俣敵潜1989]]p.55</ref>。「グランパス」の喪失認定に関する1943年3月29日付文書では、「3月5日から6日にかけての夜に、2隻の日本の駆逐艦がブラケット水道で「グランパス」を撃沈し、翌日大きな油膜が確認された」とあり<ref>[[#SS-207, USS GRAMPUS]]pp.238-239</ref>、またフェーイーは日記の中で、「二隻の日本の軍艦が味方の潜水艦を沈めて港に戻ってきたことを、このとき、僕たちは知らなかった」と記しており、海戦直後からこの手の話が伝えられていたと考えられる<ref name="k"/>。これに加え、「グレイバック」が爆雷攻撃のような音を聴取していない事から<ref name="x"/>、「沈めたとすれば水上で浮上状態を砲撃された」という尾ひれまでついた<ref name="y">[[#木俣敵潜1989]]p.56</ref>。しかし、「村雨」が3月5日16時にブイン沖を出撃して21時30分にデビル島泊地に到着し、揚陸作業を終えて22時30分に出港してコロンバンガラ島東岸を北上、23時過ぎに第68任務部隊の攻撃を受けて沈没するまで、戦闘行為を行ったのは前述のように第68任務部隊に対して反撃を行った時のみであった<ref>[[#村雨の最期]]pp.17-23</ref>。「グランパス」喪失認定に関する文書での「大きな油膜」も、おそらくは「神川丸」機などが3月6日未明から午前にかけて確認した油紋や油帯を指す。このことから、[[第九五八海軍航空隊]]の2機の[[零式水上偵察機]]が2月19日15時40分にグランパスの哨戒海域であった{{coor dm|05|04|S|152|18|E|}}の地点で潜水艦を爆撃し、直撃弾1発を与えて沈没を報告していること<ref>[[#SS-207, USS GRAMPUS]]p.238</ref>を引き合いに出して、この2月19日の攻撃こそが「グランパス」の最期であるという説も提示されている<ref name="y"/>。しかしながら、各種記述とも「グランパス」の喪失原因に結びつけて断定できるほどの材料がそろっていないのも事実であり、「グランパス」の喪失は現時点では謎とせざるを得ない。
▲また、ビラ・スタンモーア夜戦に勝利し多少進歩したとはいえ、アメリカ艦隊が日本艦隊に、特に夜戦分野で対抗するにはもう少し努力が必要であると考えられた<ref name="j">ニミッツ、ポッター, 170ページ</ref>。海戦後も、メリル少将とエインスワース少将の任務部隊はコロンバンガラ島周辺海域で交替して戦闘を続けた。不思議な事に、メリル少将が日本艦隊と再び戦うのは11月2日の[[ブーゲンビル島沖海戦]]までなく、コロンバンガラ島周辺海域で日本艦隊と戦ったのはエインスワース少将であった<ref name="j" />。しかし、エインスワース少将は[[クラ湾夜戦]](7月5日、6日)と[[コロンバンガラ島沖海戦]](7月12日)で日本艦隊に打撃を与えつつも自らも大きな損害を出し、戦法面で進歩の様子があまり見られなかった<ref>ニミッツ、ポッター, 171ページ</ref>。夜戦分野において、ようやく日本海軍を上回る戦法が確立できたと判断されるには、「31ノット・バーク」こと[[アーレイ・バーク]]中佐の登場と、バーク中佐の理論を実践した[[ベラ湾夜戦]](8月6日)での完勝劇を待たなければならなかった<ref>ニミッツ、ポッター, 174ページ</ref>。ビラ・スタンモーア夜戦も、アメリカ側に一つの損害もなかった完勝劇だったにもかかわらずである。
==脚注==
=== 注釈 ===
{{reflist}}▼
<references group="注釈"/>
=== 出典 ===
▲{{reflist|2}}
==参考文献==
* [
**Ref.{{Cite book|和書|author=C08030643700|title=神川丸戦闘詳報|ref=神川丸}}
*{{Cite
*{{Cite book|title=SS-207, USS GRAMPUS|url=http://issuu.com/hnsa/docs/ss-207_grampus?mode=a_p|format=Issuu|publisher=Historic Naval Ships Association|ref=SS-207, USS GRAMPUS}}
* E・B・ポッター/秋山信雄(訳)『BULL HALSEY/キル・ジャップス! ブル・ハルゼー提督の太平洋海戦史』光人社、1991年、ISBN 4-7698-0576-4▼
*{{Cite book|title=SS-208, USS GRAYBACK|url=http://issuu.com/hnsa/docs/ss-208_grayback?mode=a_p|format=Issuu|publisher=Historic Naval Ships Association|ref=SS-208, USS GRAYBACK}}
*C・W・ニミッツ、E・B・ポッター/[[実松譲]]、冨永謙吾(共訳)『ニミッツの太平洋海戦史』恒文社、1992年、ISBN 4-7704-0757-2▼
*{{Cite book|和書|author=海軍水雷史刊行会(編纂)|year=1979|title=海軍水雷史|publisher=海軍水雷史刊行会|ref=海軍水雷史}}
* ジェームズ・J・フェーイー/三方洋子(訳)『太平洋戦争アメリカ水兵日記』NTT出版、1994年、ISBN 4-87188-337-X▼
*{{Cite book|和書|author=鹿山誉|year=1982|title={{small|駆逐艦}}村雨の最期|publisher=駆逐艦「村雨会」|ref=村雨の最期}}
* 佐藤和正「ソロモン・ニューギニア作戦 I 」『写真・太平洋戦争(第5巻)』光人社NF文庫、1995年、ISBN 4-7698-2079-8▼
*{{Cite book|和書|author=木俣滋郎|year=1986|title=日本水雷戦史|publisher=図書出版社|ref=木俣水雷}}
*Vincent P. O'Hara, ''The U.S. Navy Against the Axis: Surface Combat 1941-1945'', Naval Institute Press, 2007, ISBN 978-1-59114-650-6▼
*{{Cite book|和書|author=木俣滋郎|year=1989|title=敵潜水艦攻撃|publisher=[[朝日ソノラマ]]|isbn=4-257-17218-5|ref=木俣敵潜1989}}
▲*{{Cite book|和書|author=E
▲*
▲*{{Cite book|和書|author=ジェームズ
▲*{{Cite book|和書|author=佐藤和正「ソロモン・ニューギニア作戦 I 」
*{{Cite book|和書|author=|editor=雑誌「丸」編集部(編)|year=1995|title=写真・太平洋戦争(第5巻)|publisher=光人社NF文庫|isbn=4-7698-2079-8|ref=写真・太平洋戦争}}
▲*
*{{Cite book|和書|author=[[原為一]]|year=2011|origyear=1955|title=帝国海軍の最後|publisher=河出書房新社|isbn=978-4-309-24557-7|ref=原2011}}
==関連項目==
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