畠山義清

南北朝時代から室町時代前期の武士。阿波守。畠山国清の嫡男

畠山 義清(はたけやま よしきよ)は、南北朝時代から室町時代前期にかけての武士官位阿波守。入道祐寿。

 
畠山義清
時代 南北朝時代 - 室町時代前期
生誕 不明
死没 不明
別名 入道祐寿
官位 阿波守
幕府 室町幕府
主君 足利義満
氏族 畠山氏(金吾家)
父母 畠山国清
兄弟 義清義晴
清貞持純
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生涯 編集

畠山国清の嫡男で、父の没落時に行動を共にしたと思われるが、詳細は不明である。その後、畠山一族が罪を許される中、義清も復権し、3代将軍・足利義満に近侍するようになった。しかし、従兄弟であり幕政を主導する管領職に就いた畠山基国と、本来畠山氏嫡流でありながら、庶流の基国の下に立たねばならない一御家人の自分を較べ、次第に鬱憤が溜まったらしく、応永12年(1405年)6月に至り突然発狂し、異様な風体で北山第に出仕したため、京都から自らの所領のある紀伊国へ追放された。また、義清の子(清貞か)も北山第から京中に追われ、その宿所は闕所とされた[1]。以降の動向は不明。子孫は以後も畠山氏庶流として将軍に近侍し、戦国時代には能登西谷内城に住み、本願寺の縁戚になったという。

脚注 編集

  1. ^ 『教言卿記』応永12年6月6日、13日条。

参考文献 編集

関連項目 編集