秋山 万可斎(あきやま まんかさい)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将甲斐武田氏の家臣。万可斎は斎号[2]

 
秋山万可斎
時代 戦国時代 - 安土桃山時代
生誕 不明[1][2]
死没 天正10年(1582年)3月[1][2]
改名 小牧新兵衛[1][2]、秋山万可斎
別名 秋山十郎兵衛
主君 武田信玄勝頼
氏族 小牧氏秋山氏
諏訪御料人侍女[1]
昌成[1]
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略歴 編集

甲乱記』によれば、万可斎は尾張国浪人で、もとは小牧新兵衛を名乗っていたという[1][2]。武田家に仕官すると秋山姓を与えられ、武田勝頼生母・諏訪御料人の侍女を室とする[1][2]

初出は永禄7年(1564年)6月13日付の武田信玄書状(「尊経閣文庫所蔵武家手鑑)で、美濃国国人である遠山氏への使者を務めている[1][2]元亀元年(1570年)、武田信玄と尾張の織田信長が美濃国神箆[3]で衝突した際には、防衛に寄与した遠山右京亮の許へ派遣されている[2]。遠山氏麾下の国衆・小里氏が武田氏から離反した際には遠山景任直廉兄弟の許へ派遣され、遠山民部入道の帰属に関する交渉の際にも派遣されている[2]

こうした動向から万可斎は尾張出身者の経歴を活かし、遠山氏との連絡役を任されたと考えられている[2]。また、万可斎の室が勝頼生母の侍女であるほか、遠山直廉の娘は勝頼正室となっており、勝頼の時代にも重用された[1][2]。子・昌成跡部勝資長坂光堅と共に勝頼の有力側近となる[1]

信長公記』『甲乱記』によれば、天正10年(1582年)3月の織田信長・徳川家康連合軍の武田領侵攻に際しては、郡内領主の小山田信茂と共に勝頼から離反したという[2]。小山田信茂は織田氏に出仕するが処刑されており、万可斎も捕縛され昌成と共に古府中で処刑されている[1][4]。孫にあたる昌成の子・内記も信濃国高遠[5]で処刑されている[1][4]

脚注 編集

  1. ^ a b c d e f g h i j k l 丸島(2007)、p.235
  2. ^ a b c d e f g h i j k l 丸島(2015)、p.25
  3. ^ こうの、岐阜県瑞浪市
  4. ^ a b 平山(2015)、p.58
  5. ^ 長野県伊那市

出典 編集

  • 丸島和洋「秋山万可斎」「秋山昌成」柴辻俊六平山優編『武田勝頼のすべて』新人物往来社、2007年
  • 丸島和洋「秋山万可斎」「秋山昌成」「秋山内記」柴辻俊六・平山優・黒田基樹・丸島和洋編『武田氏家臣団人名辞典』東京堂出版、2015年
  • 平山優『増補改訂版 天正壬午の乱 本能寺の変と東国戦国時史』戎光祥出版、2015年