立花 直次(たちばな なおつぐ)は、安土桃山時代武将大名江戸時代前期の旗本

 
高橋 統増 / 高橋 直次
立花 直次
時代 安土桃山時代 - 江戸時代前期
生誕 元亀3年12月1日1573年1月4日[1]
死没 元和3年7月19日1617年8月20日
改名 千若丸( 幼名)→高橋少輔太郎→弥七郎→統増→宗一→重種[2]→道白(号)、立花直次
別名 通称:少輔太郎、弥七郎、主膳入道、主膳正
法号:宗卜道白
神号 玉峯霊神
戒名 大通院殿玉峯道白大居士
墓所 広徳寺、紹運寺(福岡県大牟田市
官位 従五位下・民部少輔、主膳正
幕府 江戸幕府
主君 大友義統豊臣秀吉秀頼徳川秀忠
筑後三池藩藩祖
氏族 筑後高橋氏三池立花氏
父母 父:高橋紹運、母:宋雲院(斎藤長実の娘、斎藤鎮実の妹[3][4]
兄弟

宗茂(統虎)直次(統増)、甲斐/信解院[5]立花成家[6]室)[7]、於千代/栄長院[5]小田部統房室)、退清院[8]大友義乗室)、嘉也/慈光院[5]立花親家[9]室、後に細川興元室)

[異説]市郎丸(統重)[異説][11]
正室:加禰/養福院筑紫広門の娘[12]
継室:菊子/永雲院(筑紫広門の娘)
種次種吉(与兵衛、甲斐守)、政俊(種俊、宗繁)、忠茂(宗茂の養子、好雪)、虎[13]真田信勝室)、種元(左京)
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高橋鎮種(紹運)の次男で、初めは高橋姓を名乗った。筑後柳河藩立花宗茂の実弟。幼名は千若丸。通称は弥七郎、少輔太郎。官途は、主膳正、民部少輔。初名は統増(むねます)で、は次に宗一(むねかず)、重種(しげたね)、最後に直次とした。立花姓を家号としたのは慶長19年(1614年)頃以降のため高橋姓を名乗っていた時期の方が長く、高橋統増高橋直次の名でも知られる。法号は宗卜道白[14]

略歴 編集

元亀3年(1572年)に生まれる。はじめ、父・鎮種(紹運)や兄・統虎(宗茂)とともに大友氏に仕え、兄同様、主君・大友義統から偏諱を賜って「統増」を名乗った。統虎は後に立花道雪の養子となったため、統増が筑後高橋氏の嫡男となった。

天正14年(1586年)に島津氏が大友領である筑前国へ侵攻した際、父は岩屋城、統増は宝満山城をそれぞれ守った[15][16]。しかし、紹運は岩屋城の戦いにて自刃し[17]、宝満山城でも同じく籠城していた筑紫氏家臣の動揺(筑紫広門は既に島津氏の捕虜となっていた)や、島津氏からの城兵の助命を含めた降伏勧告もあり、家臣の提案による「統増夫妻を立花城へ無事に送り届ける事」という追加条件によりこれを了承した。ところが統増が城を出ると、約束を違えた島津兵によって妻共々捕虜となり、宝満山城は開城することとなる[18][19][20][21]

同年の豊臣秀吉による九州征伐後は、兄と共に豊臣氏の直臣となり、天正15年(1587年)6月25日、筑後国三池郡江浦に1万8,000石の所領を与えられた[22][23]佐々成政の領地で肥後国人一揆が起こった際には兄に従って騎馬鉄砲隊を率いて出陣し、活躍した[24][25][26][27]

天正16年(1588年)4月14日、聚楽第に秀吉が後陽成天皇行幸を迎えた際には供奉を務めた。翌天正17年には従五位下・民部少輔に叙された。

文禄の役が始まる頃、旧主義統(吉統)が嫡男義乗に家督を譲ったのを機に兄が宗虎と改名した際に同じく「宗一」と改名。翌年の大友氏改易後に「重種」と再度改名した。戦役では両役に出征して、第一次と第二次錦山の戦い[28]碧蹄館の戦い[29][30][31]第二次晋州城合戦[32][33]、慶長2(1597年)7月7日加徳島の戦い、露梁海戦などで功を挙げた。休戦期間中に国元に帰り、居城を江浦城から筑後内山城に移している。 

慶長4年(1599年)、島津義弘の領地で庄内の乱がおこると、8月28日に五大老筆頭の徳川家康より出陣を命じられ、伊集院忠真が立て篭もった日向国都之城に出陣した。

慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いで兄と共に石田三成の西軍に与して、伏見城の戦い大津城の戦いなどに出陣したので、戦後に改易されて失領。浪人して宗卜道白と号した。しかし兄同様に徳川秀忠に召し抱えられた。慶長18年(1613年)1月28日に家康に拝謁を許される。慶長19年(1614年)10月9日に常陸国筑波郡内の柿岡5,000石を与えられて旗本となった。この時に家号を高橋より、立花に改め、実名を「直次」とする。11月から始まる大坂の陣にも出陣して、徳川秀忠の危機を救う戦功を挙げた。

死後 編集

元和3年(1617年)死去。下谷広徳寺に葬られた。法名は大通院殿玉峯道白大居士。

子の種次は元和7年(1621年)に5,000石加増されて合わせて一万石となり、筑後国三池郡に移封されて三池藩が成立した。

寛政元年(1789年)12月、子孫の三池藩六代藩主立花種周が領内の菩提寺である紹運寺に、藩祖立花直次の顕彰碑を建てた。

七代藩主立花種善は、文化二年(1805年)奥州伊達郡下手渡村(福島県伊達市)に移封となり、天保6年(1835年)種善の長男・下手渡藩二代藩主立花種温の代に紹運の義烈を顕彰すべく、7月5日には紹運に性海霊神、直次に玉峰霊神の神号が贈神されて神祇伯に請いて三笠神社が創建。明治維新により三池復封となり明治3年(1870年遷座、明治4年(1871年)縣社に列するも明治16年(1883年)火事により明治29年8月現在地に遷座。以後三笠神社は郷土の発展とともに武勇の神をまつる神社として広く尊崇されている[34]

人物 編集

直次は武勇に優れ、文禄・慶長の役においては軍に囲まれた兄を血路を開いて救出したことがある。「世に主膳ほど大剛の者なし」と兄から評価された[35]。また、柳生宗矩の門弟となり「新陰治源流」を開祖した。 父・紹運から仁王三郎清綱の刀を譲られた[36]

系譜 編集

子孫 編集

直次の9世孫に一宮藩最後の藩主加納久宜(三池藩主立花種周 の孫)がおり、その末娘・夏子は、麻生グループ創業者の炭鉱王麻生太吉の息子である麻生太郎(先代)の妻であった。二人の間の長男太賀吉と、和子(吉田茂の三女)の間に生まれた息子が麻生太郎内閣総理大臣(第92代)、自由民主党総裁(第23代))である。

女系で12代後は第79代内閣総理大臣細川護熙に当たる[37]

脚注 編集

  1. ^ 立花直次とは - コトバンク
  2. ^ 中野等『立花宗茂』(吉川弘文館、2001年)4頁。中野等、穴井綾香『柳川の歴史4・近世大名立花家』80頁。
  3. ^ 『續群書類従卷第六百四十七 高橋記』の紹運公御緣邊之事では「鎮実御妹」としている。
  4. ^ 『下記寛政重修諸家譜』によると鎮実の女と記載されたが、それは鎮実の父、長実が二階崩の変で歿後、家主となった鎮実が妹を養女として扱うのだとされる。
  5. ^ a b c 矢野 1927, p.379
  6. ^ 家老薦野増時(立花三河守)の子で、もとは薦野吉右衛門を名乗る。
  7. ^ 『立花遺香』 P.160
  8. ^ 大友・松野・吉弘氏関係略系図によれば義乗の室は紹運女で宗茂と直次の妹・退清院殿梅月春光に当たる人物とされて義政と義親の母と明記し、義政の改名は貞勝と記載されている。
  9. ^ 織部助、鎮貞。立花鑑貞の長男 。
  10. ^ 吉永正春『筑前戦国史』葦書房、1977年、295-296頁。 ASIN B000J8REN4
  11. ^ 萩尾大学の娘・松尾殿が産んだという男児(庶子)。新宮高橋氏の祖[10]
  12. ^ 『筑後将士軍談』 卷之第十六 寶満城合戦付高橋筑紫和平之事 P.434~446
  13. ^ 矢野 1927, p.380
  14. ^ 中野等、穴井綾香『柳川の歴史4・近世大名立花家』224~225頁。
  15. ^ 『筑後将士軍談』 卷之第十七 高橋統増寶満登城之事 P.458~460
  16. ^ 『筑後将士軍談』 卷之第十七 紹運父子三人分三所而籠城之事 P.460~462
  17. ^ 『筑後将士軍談』 卷之第十七 岩屋落城紹運自害之事 P.468~471
  18. ^ 『筑後将士軍談』 卷之第十八 高橋統増為島津被捕付龍造寺奪取統増母送立花事 P.473~474
  19. ^ 『筑後将士軍談』 卷之第十八 高橋統増入薩摩付以立花賢賀働統増帰郷之事 P.486~487
  20. ^ 吉永正春『筑前戦国史』宝満開城 p.275~276
  21. ^ 『橘山遺事』 P.174~175
  22. ^ 中野等、穴井綾香『柳川の歴史4・近世大名立花家』P.106~117
  23. ^ 中野等 『立花宗茂』P.63~65
  24. ^ 『立花記(正・続)』、『武神 立花宗茂』、『清和源氏隈部家代々物語』「騎馬に裝著」とは、宗茂考案の鉄砲の準備である。 騎馬武者の馬首に鉄砲袋を備え、弾薬の袋を馬尻に掛けさせたのである。 これで、鉄砲は騎馬武者が一人で扱える。三人四人と騎馬の周りに配備した鉄砲持ち弾薬持ちの歩兵が戦闘力として鑓・弓・鉄砲を個別に握らせ得る。つまり、八百の兵が二千、三千の兵の役割を果たすのである。 銃袋を馬首に裝著した二百の騎馬と、水・糧食・武具弾薬を背負った馬百頭、これに従う徒歩三百。 立花軍は、鉄砲二百丁を馬首に具えた騎馬二百が先頭を駆ける。駆け來たっては陣を具えて一斉に隈部軍へ鉄砲発射である。筒口を揃えて一斉に発射すると、その煙も収まらぬ間に第二弾である。二段三段の鉄砲連射に隈部軍が怯む間隙に、今度は徒歩に長柄を備えて無二無三に突きかかる。長柄の徒歩隊は無二無三に突いて進むように見えながら、ようやく右に陣形を傾ける。隈部軍の正面に対峙するのは、徒歩の後ろに具えた騎馬鉄砲隊である。徒歩長柄が右に退く。前方が開ける。対峙した隈部軍に鉄砲弾丸の亂れ射ちである。
  25. ^ 『長編歴史物語戦国武将シリーズ(1)立花宗茂』三十八 肥後一揆 起る P.108~110、三十九 統虎 平山城を救援す P.110~113
  26. ^ 『柳河戦死者名誉録』(三二)肥後平山 天正十五年九月七日 P.17~18
  27. ^ 『筑後将士軍談』 卷之第十九 肥後國所々合戦之事 P.515~519
  28. ^ 中野等、穴井綾香『柳川の歴史4・近世大名立花家』P.117~120
  29. ^ 『柳川藩叢書』 第一集〔九五〕人物略傳小傳(一)高橋統増小傳 P.229~231頁
  30. ^ 『筑後将士軍談』 卷之第二十 江陽(碧蹄館)合戦之事 P.537~540
  31. ^ 『柳川藩叢書』第一集 補遺(七七)高橋直次への感状 今度大明人数都表へ押寄處に其方先陣無比類働之由、被聞招屆候、誠神妙思召候、弥可抽軍功事肝要候、猶木下半介可申候也 文禄二年卯月三日 高橋主膳正とのへ 秀吉朱印 206頁。(九)玉峰記 121~124頁
  32. ^ 河村哲夫、岡田武彦 『西日本人物誌[13]・立花宗茂』P.130~131
  33. ^ 攻城戦前、晋州城東北方の星州に明副総兵劉綎ら約三万余の明軍を各地に駐屯した。6月14日、宜寧に集結していた朝鮮都元帥金命元・平安巡辺使李薲・全羅巡察使権慄・全羅兵使宣居怡・防禦使李福男・助防将李継鄭鄭名世・慶尚左兵使高彦伯・右兵使崔慶会・忠清兵使黄進・京畿助防将洪季男・星州牧使郭再祐・倡義使金千鎰・義兵高従厚などの朝鮮軍5万余は咸安に到着して日本軍の進軍を止めさせたが『日本戦史・朝鮮役』 (本編・附記),141頁、日本軍先鋒隊の立花宗茂、高橋統増、小早川秀包と共に兵4千で釣り野伏せ戦法を連携してこれを敗走させた。朝鮮軍の一部は15日に全州へ撤退し、金千鎰を主に一部の朝鮮軍は晋州城に入った。このため日本軍は昌原より咸安・宜寧を通過して晋州城へ進軍した。
  34. ^ 三笠神社
  35. ^ 原文は「世間に大剛なる者、主膳程の者、之あるまじく候」。『浅川聞書』による
  36. ^ 『立花遺香』 P.91~93
  37. ^ 直次-忠茂-呂久姫(黒田綱政正室)-黒田吉之圭光院黒田継高正室)-相良長寛相良頼徳相良頼之池田章政池田詮政-博子(細川護立夫人)-細川護貞-細川護熙

参考文献 編集

先代
高橋紹運
筑後高橋氏当主
高橋統増/直次
次代
断絶(立花に改姓)