織田 信吉(おだ のぶよし)は、安土桃山時代から江戸時代初期にかけての武将官位従五位下武蔵守

 
織田 信吉
時代 安土桃山時代 - 江戸時代初期
生誕 天正元年(1573年
死没 慶長20年4月18日1615年5月15日
改名 酌(幼名)/長丸→信吉→道卜(号)
別名 羽柴武蔵守
戒名 小曄院殿雲厳道卜
官位 従五位下武蔵守
主君 羽柴秀吉
氏族 織田弾正忠家(勝幡織田氏)
父母 父:織田信長、母:興雲院(お鍋の方)
兄弟 信忠信雄信孝羽柴秀勝勝長
信秀信高信吉信貞信好長次信正相応院徳姫、秀子、永姫
報恩院於振源光院三の丸殿
月明院足利夫人
了甫、竹森清左衛門室
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出自 編集

織田信長の八男。七男の織田信高(諸説あり)・六女の於振と同じく母は興雲院(お鍋の方)[1]。幼名は酌。『織田家雑録』に「ナベニハ酌子ガソフモノトナリテ酌ト名ツケ玉フ」とあり、その名は母のお鍋の方の「鍋」になぞらえて付けられたという[1]。『小倉氏采地折紙寫并雑記』(東京大学所蔵史料)によると「信吉 少名 酌 長丸 織田武蔵守 剃髪後号道卜」とされ、幼名は長丸であった可能性もある。これと関連して、大徳寺において営まれた信長葬儀において信長の位牌を持った「相公第八男御長丸」は信吉であるとする研究もある。織田信高は同母兄[2]という説が一般的であるが、当時の一次史料からは確認できず、異説もある。

略歴 編集

本能寺の変後は母の興雲院と共に小倉にて蟄居していたが、天正11年(1583年)に羽柴秀吉から召し出されて羽柴姓と武蔵守の官、近江国神崎郡高野村や犬上郡宇尾村に2000石の所領を賜り、羽柴武蔵守と名乗って高野に館を構えた[1]。豊臣家における役職は不明。改名時期が前後することから、羽柴秀次から前名の信吉を譲られた可能性もある。『近江輿地志略』や『淡海温故録』によると禄高は2万石ともいうが、慶長4年(1599年)12月、豊臣家の大老から近江国内で2000石の所領安堵の朱印状を交付されており2000石が正しいと思われる。

慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは西軍につき、弟の織田長次と共に平塚為広勢に加わり、兵500で大谷吉継隊の前備えをなした[1]。9月15日の本戦では主将大谷吉継以下平塚為広・織田長次ら同陣した諸将は討ち死にしたものの、信吉は戦場を離脱に成功した。戦後に改易となり、豊臣家を頼り、大坂城下で暮らす。また、晩年は京都で暮らした。この間に剃髪して道卜と号した。

慶長20年(1615年)4月18日京都にて死去。享年43。法名は小曄院殿雲厳道卜[1]

系譜 編集

子女は1男1女。

  • 父:織田信長
  • 母:興雲院 - お鍋の方
  • 妻:不詳
    • 男子:左馬介沙弥了甫(良甫)
    • 女子:竹森清左衛門室

息子の了甫(良甫、左馬介、1602年 - 1665年)は僧、娘は紀州徳川家の侍女や竹森清左衛門の妻となった。了甫には織田吉伯・織田千栄・秀詠・織田吉雄の男子があり、秀詠は出家し、千栄・吉雄は京極高国の家臣になっている。子孫は水戸に移住し、津田姓を名乗った。大徳寺塔頭総見院にある信吉の墓石には「水戸津田家先祖」と刻字されている。

脚注 編集

  1. ^ a b c d e 新人物文庫『信長の子』「歴史読本」編集部編、「その他の息子たち」和田裕弘、p.107-p.111
  2. ^ ただし生年は1576年で、実際には信高の方が弟であるが、織田家中の席次は信高が上位であるため便宜上、兄とされている。