藤田 実彦(ふじた さねひこ、1900年12月25日 - 1946年3月15日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍大佐陸士33期陸大42期

藤田 実彦
ふじた さねひこ
渾名 髭の参謀
生誕 1900年12月25日
日本の旗 日本鹿児島県薩摩郡隈之城村大字東手
死没 (1946-03-15) 1946年3月15日(45歳没)
中華民国の旗 中華民国吉林省
所属組織  大日本帝国陸軍
最終階級 大佐
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別名、田友・田通[1]。髭の参謀とも呼ばれた[1]通化事件の首謀者として中共軍に拘束され、肺炎で急死した。

来歴・人物 編集

鹿児島県士族出身。薩摩郡隈之城村大字東手(現在の薩摩川内市宮崎町)出身[1]。陸士卒業後、歩兵第23連隊附。陸大卒業後は独立軽装甲車第2中隊長として華北戦線、南京攻略戦に参加。内地に帰還し内閣情報局第1部第3課長、戦車第1連隊長を歴任。1945年、再び大陸へ向かい第125師団参謀長となった。

ポツダム宣言が受諾された翌日、関東軍にも武装解除命令が通達されたが、納得の行かない藤田は関東軍作戦班長の草地貞吾大佐に電話をかけ、「草地君、ワシの師団は関東軍命令はきかないからなあ」と命令拒否と師団の徹底抗戦を宣言した。止めようとする草地に「オレは停戦のために軍人になったのではない」と叫んだが、これに草地も激高し「なんだと・・・軍命令を聞かないとは、スグにも逮捕令を出しますぞ。聞かねば聞かないと、もう一度明言しなさい。あなたがいなくても、 第125師団には今利中将という立派な師団長がおられる」と返した。この言葉にようやく藤田は静まり、「命令だけは師団全部に通達する」と思いとどまった[2]

その後、藤田は武装解除を待たず師団を離れ、家族を連れて通化を脱出。石人に落ち着いた。ソ連軍と入れ替わりに通化に入った中国共産党は、通化省指導者の粛清を始めた。藤田は、もし自分の居所が露見した場合、匿ってくれた人々にも害が及ぶのではないかと考え、自ら竜泉ホテルの八路司令部に出頭した。八路側も藤田の率直な態度に好意を持ち、藤田はすぐに石人に帰ってきた。

しかし、国民政府日本人らは中共への反撃を考えており、藤田をその中心人物であるとみなすようになった。これを危惧した共産党側は1月5日、竜泉ホテルに藤田を監禁した。1月15日、ホテルを脱出するがその時に怪我を負い、通化事件には関与していない。

2月5日、通化事件の首謀者として八路軍に拘束された。3月10日、市内の百貨店で八路軍主催の2・3事件展示会が開かれ、戦利品の中央に蜂起直前の2月2日に拘束された孫耕暁通化国民党部書記長[3]とともに見せしめとして3日間に渡り立たされた。藤田は痩せてやつれた体に中国服をまとい、風邪をひいているのか始終鼻水を垂らしながら「許してください。自分の不始末によって申し訳ないことをしてしまいました」と謝り続けた。心ある人たちは見るに忍びず、百貨店に背を向けた[4]

3月15日、獄中で肺炎のため死去。享年45。その遺体は市内の広場で3週間さらされた。

年譜 編集

関連項目 編集

脚注 編集

  1. ^ a b c 川内郷土史編さん委員会 1980, p. 1023.
  2. ^ 停戦 軍命に抗す参謀長[1]
  3. ^ 孫耕暁は供述後に直ちに処刑され、劉慶栄軍需科長が立たされたとの説もあり
  4. ^ 松原前掲書
  5. ^ 『陸軍現役将校同相当官実役停年名簿』(昭和2年9月1日調)309コマ
  6. ^ 『陸軍現役将校同相当官実役停年名簿』(昭和9年9月1日調)216コマ

参考文献 編集

軍職
先代
向田宗彦
戦車第1連隊長
第8代:1942年6月26日 - 1945年1月25日
次代
中田吉穂