近藤利兵衛

日本の実業家

2代目 近藤 利兵衛(こんどう りへい、安政6年4月15日(1859年5月17日) - 大正8年(1919年4月21日)は、日本実業家。蜂印香竄葡萄酒(蜂印葡萄酒)の発売元である近藤利兵衛商店を経営し、豊国銀行の取締役、旭製薬の監査役も務めた。

こんどう りへい

2代目 近藤 利兵衛
1893年の近藤利兵衛
生誕 松熊岩吉
1859年5月17日
江戸 四谷忍町
死没 1919年4月21日(60歳)
大阪府大阪市
職業 実業家
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経歴 編集

青年期 編集

安政6年4月15日(1859年5月17日)、江戸四谷忍町6番地の松熊林蔵の三男として生まれた[1]下野国(現・栃木県)出身とされることもある。幼名は岩吉[1]東京日本橋小網町にある砂糖商の百足屋に奉公し、仕入れで横浜に同行するなど主人に目を掛けられた[1]。日本橋の檜物町には洋酒商の近藤利兵衛商店(近藤商店)があったが、初代近藤利兵衛には子がいなかった[1]。1889年(明治22年)、岩吉は初代近藤利兵衛の養子となった[1]

近藤商店の発展 編集

「蜂印香竄葡萄酒」(蜂ブドー酒)のボトルと看板

当時の東京には盛んにビールが輸入され、その他の洋酒なども店頭に並び始めた頃だった[1]。岩吉は神谷傳兵衛が造る葡萄酒甘味果実酒)の味に驚き、1881年(明治14年)に神谷傳兵衛と取次販売の契約を結んだ[1]。それまでは神谷傳兵衛が製造と販売の双方を行っていたが、近藤商店のおかげで神谷傳兵衛は製造に専念できることとなった[2]。3歳差の岩吉と神谷傳兵衛は私的にも親交を深め、近藤商店は「蜂印香竄葡萄酒」の販売に全力を注いだ[1]

新聞で商品の宣伝を行うことが珍しい時代だったが、絵や意匠に工夫を凝らした「蜂印香竄葡萄酒」の新聞広告は話題となった[1]。鉄道沿線に葡萄酒の巨大な看板を建てたり、東京駅から下関駅までの各駅に葡萄酒の広告を出すなど、当時としては画期的な宣伝手法も用いた[1]。「神谷の販売部は近藤商店、近藤の製造部は神谷の醸造所」と言われるような状態であり、「蜂印香竄葡萄酒」の製造元である神谷傳兵衛(みかはや銘酒店)、販売元である近藤商店はそれぞれ繁盛した[1]

 
公私ともに親交があった神谷傳兵衛

31歳だった1892年(明治25年)5月13日、栃木県下都賀郡栃木町の市川弥平の長女かつを娶った[1]。初代近藤利兵衛は岩吉に近藤家の家督を譲り、2代目近藤利兵衛を襲名した[1]。初代近藤利兵衛は日本橋区村松町に家を建てて隠居した[1]。1901年(明治34年)には長男の忠彦が生まれたが、10歳の時に早逝したため、四女の富子に婿養子として白井六郎を迎えた[1]。様々な事業を手掛けた神谷傳兵衛とは異なり、2代目近藤利兵衛は洋酒の販売に専念していたが、1907年(明治40年)には豊国銀行(後の昭和銀行)の発起人に加わって取締役となった[1]。1907年(明治40年)には寿屋洋酒店(後のサントリー)が赤玉ポートワインを発売しているが、この頃によく売れていた葡萄酒は「蜂印香竄葡萄酒」だった[3]

死去 編集

1918年(大正7年)12月、60歳の時に資本金150万円の株式会社近藤商店を設立した[1]。その翌年の1919年(大正8年)4月21日、2代目近藤利兵衛は旅先の大阪で急逝した[1]。墓所は谷中霊園。近藤六郎(白井六郎)が3代目近藤利兵衛を襲名し、株式会社近藤商店の社長に就任した[1]。1920年(大正9年)には神谷傳兵衛によって墓に献灯が建てられた。

脚注 編集

  1. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s 日統社編集部『神谷傳兵衛と近藤利兵衛』日統社、1933年、pp.25-46
  2. ^ 坂本箕山『神谷傳兵衛』坂本辰之助、1921年
  3. ^ 『味百年 食品産業の歩み』日本食糧新聞社、1967年、p.271

参考文献 編集

  • 日統社編輯部『神谷傳兵衛と近藤利兵衛』日統社、1933年