郭 鋐(かく こう、生年不詳 - 1509年)は、明代軍人は彦和[1]本貫廬州府合肥県

生涯 編集

彭城衛指揮使の職を嗣いだ。成化初年、荔浦県の乱の討伐に従軍して功績を挙げ、都指揮僉事に進んだ。武挙に及第し、都指揮同知に転じた。張懋の推挙により都勝に代わって揚州府に駐屯して、倭寇に備えた。1486年(成化22年)、都勝に代わって参将となり、協同で運河交通の監督にあたった。弘治年間、副総兵として広西に駐屯し、府江の僮族の乱を撃破した。

1494年(弘治7年)、郭鋐は都督僉事を代行し、漕運総兵官に転じた[2]1499年(弘治12年)、郭鋐は副使の張鼐による沁河治水の意見を引用して、武陟県木欒店から荊隆口までを開削し、沁水を分水して賈魯河に引き入れ、丁家道口から徐淮へと流すよう請願した。しかし鄒魯の反対に遭って聞き入れられなかった[3]。この年のうちに都督同知に進んだ[4]1507年正徳2年)、北京に召還され[5]、後府に出仕した。1509年(正徳4年)、死去した[6]。『明史』郭鋐伝は郭鋐の官歴を57年と特筆しており、趙翼陔余叢考』も「仕宦最久」の人物のひとりとして取り上げている[7]

脚注 編集

  1. ^ 『広西通志』巻66
  2. ^ 談遷国榷』巻42
  3. ^ 『明史』河渠志五
  4. ^ 『国榷』巻44
  5. ^ 『国榷』巻46
  6. ^ 『国榷』巻47
  7. ^ 趙翼『陔余叢考』巻39

参考文献 編集

  • 『明史』巻166 列伝第54