陳 継(ちん けい、1370年 - 1434年)は、明代学者は嗣初、は怡庵。本貫蘇州呉県

生涯 編集

陳汝言と呉氏のあいだの子として生まれた。生後10カ月で父が刑死し、数万巻の書が残された。母の呉氏が機織り仕事をしながら、それらの書を読み聞かせた。陳継は成長すると、経学に精通するようになり、陳五経と称された。がたびたび推薦したが、母が老齢であることを理由に官に就かなかった。母が死去すると、陳継は哀毀すること人並みではなかった。永楽年間、孝行により推挙され、その母は貞節と顕彰された。1424年(永楽22年)、洪熙帝が即位し、弘文閣が開かれると、陳継は楊士奇の推挙により召し出されて、国子博士となった。ほどなく翰林院五経博士に転じ、弘文閣に宿直した。1430年宣徳5年)5月、翰林院検討となった[1]1432年(宣徳7年)5月、老病のため致仕し、帰郷した。1434年(宣徳9年)、死去した。享年は65。著書に『怡庵集』20巻[2]があった。

子女 編集

  • 陳宗
  • 陳寛
  • 陳宏
  • 陳宣
  • 陳完
  • 陳氏(謝璜にとついだ)

脚注 編集

  1. ^ 談遷国榷』巻21
  2. ^ 明史』芸文志四

参考文献 編集

  • 『明史』巻152 列伝第40
  • 故翰林検討陳君墓碑銘(楊士奇『東里文集』巻14所収)