飯尾尚清

戦国時代から安土桃山時代の武将。織田氏の家臣。尾張奥田城・北島城主。赤母衣衆。隠岐守・出羽守・正五位上・従四位下・侍従。子に飯尾宗敏(永沼左之助)、横井弥兵衛。

飯尾 尚清(いいのお ひさきよ)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将織田氏の家臣。尾張国奥田城北島城主。赤母衣衆の一人。

 
飯尾尚清
時代 戦国時代 - 安土桃山時代
生誕 享禄元年(1528年
死没 天正19年2月22日1591年4月15日
別名 信宗、通称:茂助[1]
官位 隠岐出羽正五位上従四位下侍従[1]
主君 織田信長信雄羽柴秀吉
氏族 織田氏流飯尾氏
父母 父:飯尾定宗、母:細川晴元[2]
兄弟 尚清重宗(敏宗)
織田信秀十女
敏成宗敏(永沼左之助)、横井弥兵衛[1]長谷川秀一[1]
養女:星合具泰室(飯尾重宗娘)[1]
テンプレートを表示

は信宗とも伝わるが、尚清が正しいとされる[3]弘治2年(1556年6月26日、父・飯尾定宗と共に、尾張守山城攻めに従軍。永禄3年(1560年5月桶狭間の戦いで父や大叔父・織田秀敏と共に鷲津の砦を守るが、今川軍に敗れて父は討ち死にし、尚清は敗走。以後は信長の馬廻となり、同年、母衣衆(赤母衣衆)に加わった[1]石山合戦三木合戦などでは検視役を務めた。どちらかといえば吏僚的な活躍の方が多い。

天正2年(1574年7月伊勢国長島一向一揆に参戦した[4]。天正10年(1582年)、本能寺の変では長男・敏成が討ち死にした。信長の死後は、その次男・織田信雄に仕え、2200貫文を知行する。のち羽柴秀吉に仕えた。天正15年(1587年)、正五位上[1]。天正18年(1590年)、従四位下侍従に任じられる[1]

天正19年(1591年)2月22日に死去。享年63。家督は弟・重宗(敏宗)が継ぎ、次男・宗敏は重宗の子の敏隆の養子となっている。

脚注 編集

  1. ^ a b c d e f g h 寛政重修諸家譜
  2. ^ 『公卿補任』
  3. ^ 沢野井文書
  4. ^ 信長公記