駒野城(こまのじょう)は、岐阜県海津市にあった中世日本の城山城)。駒野集落の北西にある。標高30mほどの舟岡山と称されたこの小丘に本丸とみられる郭があり、東・西・南を土塁が囲んでいた。跡地は海津市立城山小学校となっている。

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駒野城
岐阜県
別名 船岡城
城郭構造 山城
築城主 高木貞政または瀬戸道明寺
築城年 文明年間または正暦年間
主な改修者 池田勝三郎、森勝蔵
主な城主土岐氏)、高木氏
廃城年 1600年
遺構 土塁、堀、人工傾斜地
指定文化財 海津市指定史跡[1]
位置 北緯35度13分31秒 東経136度35分47.9秒 / 北緯35.22528度 東経136.596639度 / 35.22528; 136.596639
地図
駒野城の位置(岐阜県内)
駒野城
駒野城
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歴史 編集

正暦年間に瀬戸道明寺が初めて城を構え、鎌倉時代文治建久年間に守護土岐光衡光行が南濃の要地として城を築き守将を置いた。

その後土岐家歴代の家臣が守っていたが、天文11年(1542年斎藤道三の家臣髙木彦左衞門に攻略され、この時より高木氏が居城したとの伝承がある。一般には文明年間に高木貞政が築城したとされるが、その伯父・高木貞成が築いたとの記録もある[2]。髙木系譜によれば、2代目髙木彦左衞門貞久は織田信長に仕え、次男貞利へ永禄10年(1567年)駒野城を譲り今尾城主となり、同11年(1568年)弟貞秀に譲っている。天正7年(1579年)貞秀は庭田城へ入り、弟貞友に駒野城を譲った。

信長没後、高木貞友徳川家康の家臣となり、天正12年(1584年)に小牧・長久手の戦い羽柴秀吉は、筒井順慶、小川左馬介の大軍を差し向けて攻略にかかったが、当時の髙木彦左衞門は、勘解由左衛門を先鋒としてよく耐えて守り抜き、城を落とせずに退いた。その後、秀吉の天下になり、髙木一族は美濃を退去した。

慶長5年(1600年関ヶ原合戦の際、石田三成がこの地を巡察し、桑名より大垣への守りのため、塁壁の構築を命じた[3]。松ノ木城主徳永寿昌は関ヶ原合戦のときは、池田伊予守秀氏が籠る駒野の城を攻め8月19日に開城させた[4]。その後、廃城となった。

所在地 編集

岐阜県海津市南濃町駒野1317

アクセス 編集

脚注 編集

  1. ^ 海津市の文化財 ”. 海津市. 2013年5月15日閲覧。
  2. ^ 『高木家先祖書』
  3. ^ 『高須旧記』駒野城山旧記
  4. ^ 寛政重修諸家譜』巻第千百五

参考文献 編集

  • 『日本歴史地名大系』(オンライン版) 小学館
  • 『南濃町の史跡・文化財』 海津市((旧)南濃町教育委員会)