高橋高盛

戦国時代から江戸時代前期の武将。後北条氏の家臣。左衛門尉。烏山系高橋氏

高橋高盛(たかはし たかもり)は、戦国時代から江戸時代前期にかけての武将後北条氏の家臣。父は高橋氏高、母は大石定仲の娘。

 
高橋高盛
時代 戦国時代 - 江戸時代前期
生誕 永禄4年(1561年)?
死没 寛永10年1月29日1633年3月9日
別名 助七郎、左金吾、侍郎左衛門尉、民部大夫
戒名 法高院友徳日浄信士
墓所 武州烏山民部谷(現・世田谷区烏山)
官位 左衛門尉
主君 北条氏政氏直
氏族 大蔵氏流高橋氏
父母 父:高橋氏高、母:大石定仲娘(氏高の継室)
兄弟 源七郎、久太郎、高盛、高忠、高信、女(高橋康頼室)
正室:北条綱高娘(高性院妙玄日信大姉)
高次、盛久、盛種、盛好
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生涯 編集

永禄4年(1561年)、伊豆国雲見上ノ山城にて誕生する。元服すると左衛門尉高盛と名乗り、北条氏政に出仕した。

天正5年(1577年)、父・高橋氏高が隠居し、伊豆国雲見上の山城に居住したことにより、家督を相続する。同年、武田勝頼の家臣・春日虎綱が鷲津保塁を攻めた時、四面楚歌になった高盛は士卒を指揮して、自ら軍太刀を奮ってこれを死守した。討ち取った首級12。

天正18年(1590年)の小田原征伐では、父・氏高が下田城に籠城したために、高盛が北条氏直の命により、小田原城の巡夜厳警将となる。同年6月26日夜半、井伊直政松平康頼の軍が小田原城の壕を渡り、城内に侵入してきた時、山角上野介、同嫡子・四郎左衛門尉、同次男・左近大夫が防戦したが、笹郭に侵入してきた。高盛は、従兄弟・高橋康種、弟・高忠、高信と共に、山角勢を援護し防戦し、反撃した。この戦いで、弟・高忠、高信が討死し、高橋家の譜代家臣のほとんどが戦死した。

小田原城落城後、高盛は、氏直の命に従い、家臣の福田勘解由、秋山小二郎、伊藤右衛門、小屋山徳左衛門などの一族と共に、武州烏山の砦に住した。

寛永10年(1633年)1月29日没。享年72歳。

参考資料 編集

  • 三鷹市史『大蔵高橋家系図』
  • 世田谷区『烏山高橋系図』
  • 寛政重修諸家譜』(11)
  • 『新編武藏風土記』(3)
  • 富士見市大應寺『大宅高橋家系図』(高橋孫三郎家所蔵)