髙瀬 一誌(たかせ かずし、1929年12月7日 - 2001年5月12日)は昭和から平成期の歌人。本名、高瀬公一郎。

経歴 編集

東京府豊多摩郡井荻町(現・杉並区)に生まれる。父は東京商科大学(現・一橋大学)教授・文部大臣郵政大臣などを歴任した高瀬荘太郎、母方の祖父は台湾銀行副頭取・東洋海上保険(現・日新火災海上保険)社長などを歴任した下坂藤太郎

1942年暁星中学校に入学し、戦時中は父の郷里である静岡県富士宮市に疎開して富士宮農学校(現・静岡県立富岳館高等学校)に転校した。1946年に歌誌「をだまき」に入会し、中河幹子(小説家・中河与一の妻)に師事。1951年蒔田さくら子とともに歌誌「短歌人」に入会し小宮良太郎に師事。1953年、「短歌人」編集委員就任。参議院議員を務めていた父の秘書を経験する。1956年、作品活動が活発かつ功労のあった同人に贈られる斎藤瀏賞を受賞。

1959年東京経済大学を卒業。中外製薬広告課に入社し、25年にわたってCMなどの制作に携わった。手がけたCMには「ガンバラナクッチャ」「ちかれたびい」で知られる新グロモントや「おじゃま虫」のバルサンなどがある。

1966年、「短歌人」編集・発行人に就任。1973年、歌人の三井ゆきと結婚。

10代から作歌を始めているが、第一歌集『喝采』を出したのは遅く、1982年、53歳の時のことである。同作で第8回短歌公論処女歌集賞を受賞。1985年に中外製薬を退社、「短歌人」編集発行人も退く。同年、石黒清介の誘いにより、『短歌現代』(短歌新聞社)編集長に就任。1989年現代歌人協会理事・広報委員長。1994年、現代歌人協会常任理事。

2001年、膵臓がんにより死去。墓所は鎌倉市円覚寺

作風・人物 編集

作風としては、散文的で実験性の強い口語短歌である。意図的に音数を減らした文体に特徴があり、とりわけ三句目の五音が脱落していることが多い[1]。その一方で、特に初心者に対しては、定型の遵守を強く指導していたという。

後進育成にも熱心で、「短歌人」から小池光永井陽子藤原龍一郎武下奈々子辰巳泰子松木秀天野慶など多くの歌人を送り出した。その功績を称え、2002年より「短歌人」内の公募新人賞である「短歌人新人賞」が、「高瀬賞」と改称される[2]

主な著書 編集

  • 歌集『喝采』 短歌新聞社、1982年
  • 歌集『レセプション』 短歌新聞社〈昭和歌人集成〉、1989年
  • 歌集『スミレ幼稚園』 短歌新聞社、1996年
  • 歌集『火ダルマ』(遺歌集) 砂子屋書房、2002年
  • 『高瀬一誌全歌集』 短歌人会、2005年
  • 『髙瀬一誌全歌集』 六花書林、2015年

脚注 編集

  1. ^ 高橋みずほ定型の不思議 - 高瀬一誌の場合」『十月会レポート』第101号(2001年1月)。
  2. ^ 短歌人会概要」『短歌人会』。

外部リンク 編集