黒木弘重

日本の元プロ野球選手 (1933-)

黒木 弘重(くろき ひろしげ、1933年4月15日 - )は、宮崎県高鍋町[2]出身の元プロ野球選手。ポジションは一塁手外野手

黒木 弘重
明治大学時代(1955年撮影)
基本情報
国籍 日本の旗 日本
出身地 宮崎県高鍋町
生年月日 (1933-04-15) 1933年4月15日(91歳)
身長
体重
180 cm
77 kg
選手情報
投球・打席 右投右打
ポジション 一塁手外野手
プロ入り 1956年
初出場 1956年3月25日[1]
最終出場 1960年
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)

大洋ホエールズで活躍した黒木基康は実弟に当たり、1960年には大洋でチームメイトとして所属した[2]

来歴・人物 編集

高鍋高校在学中は甲子園出場なし[3](弟の基康は1954年、3年生の時に一塁手として夏の甲子園に出場している)。1951年夏の甲子園予選東九州大会に進むが、1回戦で大分上野丘高に惜敗。高校同期に大学、プロ野球と行動を共にする岩岡保宏がいた、

岩岡とともに明治大学に進学。東京六大学野球リーグではエース秋山登を擁し、1953年秋季リーグの戦後初優勝を含め、在学中に3度の優勝を経験。1954年[4]1955年[5]全日本大学野球選手権大会での明大の連覇に貢献した。

1956年に大洋ホエールズ(現・横浜DeNAベイスターズ)へ入団[2]。同期の岩岡、秋山、土井淳沖山光利とともに「明大五人衆」と呼ばれ話題になった。同年は開幕から一軍で起用され、3月25日広島とのダブルヘッダー第2戦(広島県総合グランド野球場)には藤井勇に代わり、いきなり一塁手、四番打者として初先発出場を果たす。しかし同年はこの試合も含めて3試合の先発にとどまった。その後は主に代打や守備固めとして起用されるが、1959年には自己最多の12試合に先発出場。1960年には実弟の基康が入団。6月5日国鉄とのダブルヘッダー第2戦(川崎球場)では兄弟出場を果たした[6](但し、守備に就いたのみで打撃はすぐに浜中祥和に交代。三原マジックの一環である)。1960年限りで現役引退[2]

引退後は基康と共に、1966年に急逝した義父の事業を手伝っている。

詳細情報 編集

年度別打撃成績 編集

















































O
P
S
1956 大洋 36 39 36 2 5 0 0 0 5 3 0 0 0 0 3 0 0 11 0 .139 .205 .139 .344
1957 23 24 22 0 2 0 0 0 2 1 1 0 1 0 1 0 0 11 0 .091 .130 .091 .221
1958 15 13 12 1 2 1 0 0 3 0 0 0 1 0 0 0 0 5 0 .167 .250 .167 .417
1959 53 76 73 0 14 1 0 0 15 8 0 0 2 0 1 0 0 13 0 .192 .203 .205 .408
1960 19 21 20 2 4 0 1 0 6 0 0 0 0 0 1 0 0 5 0 .200 .238 .300 .538
通算:5年 146 173 163 5 27 2 1 0 31 12 1 0 4 0 6 0 0 45 0 .166 .195 .190 .385

背番号 編集

  • 6 (1956年 - 1960年)

関連項目 編集

脚注 編集

外部リンク 編集