19世紀後半のロシアの革命組織

19世紀後半のロシアの革命組織(じゅうきゅうせいきこうはんのロシアのかくめいそしき)では、19世紀後半のロシア帝国に存在した革命組織について述べる。これらは、列びに官憲との戦いで消長を繰り返した。

前史 編集

ロシアの近代化、民主化は遅れた。ロシアには農奴制があった。その実態はひどく、地主は生殺与奪の権利を握り、アメリカの黒人奴隷と優劣を付けられないほどであった。

貴族の子弟はドイツ留学、スイス留学を経て、当地の明媚な風光、農民の活力を見て、自国民の向上を責務と考えるようになった。こうして起こったのが、ニヒリズム運動と、ナロードニキ運動である。貴族の子弟は農村に入り、農民とともに汗を流し、学校を作り、診療所を作った。新旧対決は同時に親子対決でもあったので、時代とともに、民主化は成就するかに見えた。しかし、ロシアの秘密警察は、これを帝政を揺るがせるものと見て、弾圧を加えた。[1]

人道的に、無報酬で建てられた学校や診療所の窓に、監視要員が立った。無神論だ、反体制だとデマを飛ばして、活動家と農民の仲を裂いた。理想に燃える青年たちは、地下活動に走った。どちらが先かというと、弾圧が先で、地下活動があとである。[2]

ロシアの秘密警察 編集

起源は、ピョートル1世に遡り、反対者を弾圧する為に「秘密局」を設立した。息子アレクセイペトロパヴロフスク要塞にて、拷問・殺害された。エカテリーナ2世の時代には、夫のピョートル3世を殺害。さらに、プガチョフの乱を鎮圧。啓蒙から反動に転じて、秘密裁判所、拷問部屋を設立した。[1] ニコライ1世の時には、デカブリストの乱を鎮圧。のちに、皇帝官房第三部を設立。これ以降、ルイレーエフシェフチェンコドストエフスキーバクーニンチェルヌイシェフスキーピーサレフカラコーゾフネチャーエフレーニンらが、ペトロパヴロフスク要塞に投獄される。 1866年には、被疑者に、1週間も睡眠を与えないという不眠の拷問が行われている。これは、肉体的な拷問が試行錯誤された後での、かなり洗練された拷問である。 クロポトキンは自書で、「ロシアの政治は抑圧的であり、それは、暗く、寒く、豊饒な海から遠いという風土と、猜疑心、復讐心の強いロマノフ家の遺伝的特質に原因がある」と述べている。[1] 言論弾圧、言いがかりのような逮捕、拘禁、拷問、流刑、死刑は日常風景となる。スパイは全階級に放たれている。知識人は、外国でなければ活動ができないと感じる。これらは、開明化されつつある若い貴族階級の反感を買った。[2] その後アレクサンドル2世は度重なる暗殺事件から、組織を発展させて、ロシア帝国内務省警察部警備局(オフラーナ)とした。

留学生のサークル 編集

ロシア貴族の子弟はドイツやスイスに留学した。そこで、ロシア人のサークルを作って、読書会や互助会を組織した。読書をすれば、意見が活発に取り交わされる。留学生といっても、喰うや喰わずの者もいるので、食事に招待したり、就職を斡旋したりする組織も作られる。マスコミが作られる以前の人は、横の組織を作るのは容易であった。そこから、革命や改革の為の組織が作られた。それらの組織は親和的で、同じ人が多くの組織に出入りしていた。[1]

ロシアのニヒリズム 編集

最大の悪弊は農奴制であった。貴族の父親は横柄で厳しく、息子は召使や農民に人道的に接した。ロシアに輸入された社会思想は、親子対決の形をとった。

体制の側にある宗教、芸術、社交生活さえ否定された。当時、貴族の子弟は軍隊に入り、きらびやかな制服を着て、形だけの行進をしていた。実際に戦うのは、従僕や民兵であった。また娘は、舞踏会に出て、夜を徹して踊っていた。それが一転して、教育を受けて、医師や教師となり、社会に貢献するのが目的となる。この場合の教育は、人類や社会に貢献する為のものであり、担い手は貴族の子弟だから、立身目的ではない。このストイックさは、時に滑稽な面も見せた。

道で人に会って会釈する事も偽善とされ、つねに気難しい顔をする。美や芸術も、農民や労働者からの搾取の上に成り立っていると否定される。愛のない結婚も否定される。貴族の娘は、華美な衣裳を捨てて、黒一色の地味な衣裳をまとい、わざわざ貧しい暮らしをする。さらに、家出が流行する。家を出た青年男女は、手近なサークルに入り、そこでは男女が対等に、禁欲的に共同生活をした。このサークルでは召使を雇う事は許されず、貴族の令嬢も自分の手で床磨きをした。衣類や装飾品は売れず、若い娘は読書で身を飾った。[1][2]

ナロードニキ運動 編集

都会の、倦怠なだけの社交生活、体裁だけの家庭生活を捨てて、人民の中へ入ろうという運動。それは貴族子弟にとっては、フロンティアであった。台所や召使の部屋に入って、彼らと対等に話すだけでも、ナロードニキとされた。勉強好きな者は、医師や教師となり、農村へ入って、無料の診療所や学校を作った。活動的な者は、農場や工場を作って、そこで現地の農民と一緒になって汗を流した。娘たちも教師や看護の資格を取ったが、それは自立する為と、貧しい農民に尽くす為である。行った先では、多く、あまりに悲惨な農民の実態に触れる事となった。まったく一介の農夫、樵、鍛冶屋となる者もあった。[1]

小史 編集

組織 編集

フリッチ 編集

発祥はチューリッヒ、女学生のみ、労働者工作が中心。

ソフィア・バルディナアレクサンドロヴァオリガ・リュバトーヴィチヴェーラ・リュバトーヴィチカーメンスカヤスボーチナ姉妹リジア・フィグネル

ナロードニキ 編集

これは結社ではなく、草の根運動。

ヴォイナラリスキーサブリンドミトリー・ロガチェフ、ムイシキン、ヴェーラ・フィグネルヴェーラ・ザスーリチゲオルギー・ツェレテリピョートル・クロポトキン、など多数。

ナロードニキ理論派 編集

ピョートル・ラヴロフタクシスピョートル・トカチョーフスミルノフニコライ・ミハイロフスキー

組織 編集

ドミトリー・カラコーゾフイシューチン

人民の裁き 編集

セルゲイ・ネチャーエフスミルノフヴェーラ・ザスーリチニコライ・オガリョフ

チャイコフスキー団 編集

詳しくはチャイコフスキー団も参照

マルク・ナタンソンオリガ・ナタンソンニコライ・チャイコフスキークレメンツニコライ・アレクサンドロヴィチ・モロゾフソフィア・ペロフスカヤジェリャーボフコロトケヴィッチレフ・ティホミーロフフロレンコランガンスコルニロヴァ三姉妹ピョートル・クロポトキン

土地と自由 編集

マルク・ナタンソンオリガ・ナタンソンオボレーショフアドリアン・ミハイロフアレクサンドル・ミハイロフアレクセイ・ボゴリューボフバランニコフゲオルギー・プレハーノフヴェーラ・フィグネルヴェーラ・ザスーリチマリア・スボーチナユーリー・ボグダノヴィッチピーサレフクレメンツニコライ・アレクサンドロヴィチ・モロゾフオシンスキーオシャーニナステファノヴィッチペロフスカヤ、コロトケヴィッチ、レフ・ティホミーロフ、フロレンコ、クレートチニコフ

人民の意志 編集

詳しくは人民の意志も参照

ソフィア・ペロフスカヤニコライ・アレクサンドロヴィチ・モロゾフ、レフ・ティホミーロフ、フロレンコ、ランガンスオリガ・リュバトーヴィチユーリー・ボグダノヴィッチヴェーラ・フィグネルオシャーニナアレクサンドル・ミハイロフバランニコフソロヴィヨフゴーリデンベルクミハイル・ポポフステファノヴィッチジェリャーボフコロトケヴィッチアンナ・コルバハルトゥーリンキバリチッチヤキモーヴァシリャーエフサブリンイサーエフトリゴーニデガーエフスハノフクレートチニコフルイサコフグリネヴィツキーイグナツィ・フリニェヴィエツキ)、チモフェイ・ミハイロフエメリャーノフグラチェフスキーニコライ・ロガチェフロバーチンワシリー・イワーノフパンクラートフセルゲイ・イワーノフエゴール・サゾーノフリュドミーラ・ヴォルケンシュテイン

社会革命党 編集

詳しくは社会革命党も参照

グリゴリー・ゲルシューニマリヤ・セリュークエヴノ・アゼフワシリー・イワーノフパンクラートフセルゲイ・イワーノフマリア・スピリドーノワマルク・ナタンソンゲオルギー・ガポンボリス・サヴィンコフエカテリーナ・ブレシコ=ブレシコフスカヤアレクサンドル・ケレンスキーエゴール・サゾーノフ

ロンドン亡命組 編集

プレハーノフヴェーラ・ザスーリチパーヴェル・アクセリロードレーニントロツキーマルトフ

脚注 編集

  1. ^ a b c d e f g h 藤本良造訳、クロポトキン著「一革命家の思い出」
  2. ^ a b c d e f 金子幸彦、和田春樹訳、ヴェーラ・フィグネル「ロシアの夜」
  3. ^ a b 野上弥生子訳、ソーニャ著「ソーニャ・コヴァレフスカヤ」

関連項目 編集