Wikipedia:コメント依頼/山本山815 20100310

利用者:山本山815会話 / 投稿記録の編集行為についてコメントを依頼します。--山本山815 2010年3月10日 (水) 10:29 (UTC)[返信]

これまでの経緯 編集

Yassie氏が私の会話ページにて発言され、そのことについてコメント依頼を提出したのですが、それよりも山本山815の編集姿勢に問題があったのではないか、その事についての自身のコメント依頼を出した方が良いのではないかとの意見が大半を占めました。

かつて意見対立のあった方々から、当時ではなく、今回の機会でもって促される形でのコメント依頼に少し疑問もあったのですが、全く利害関係のないブースカ氏より丁寧な提案を受けましたので、自身に対するコメント依頼を提出したいと思われます。 みなさんのコメントを下されば幸いです。--修正山本山815 2010年3月22日 (月) 05:03 (UTC)[返信]

  • 参考
利用者‐会話:山本山815
利用者‐会話:Yassie
Wikipedia:コメント依頼/Yassie 20100301
利用者:山本山815会話 / 投稿記録

コメント 編集

印象論に基づくコメントは届きますか? Wikipedia:コメント依頼/Yassie 20100301 の続きになりますが、二度とやって欲しくないこと。ご自分の参加姿勢について、それを批判された状況下で Wikipedia:編集方針#多様な参加姿勢が受け入れられます を持ち出す[1]のは不適切です。もちろん、不適切であることがどこかの方針文書やガイドラインに書いてあるわけではありません。「自分に甘い」「自分を正当化しようとしている」という印象を周囲に与え、信用を落としてしまうためです。ウィキペディア初心者が批判や注意を受けたときに、その初心者が自分で Wikipedia:新規参加者を苛めないでください を持ち出すようなものです。--Su-no-G 2010年3月11日 (木) 09:35 (UTC)[返信]

あと、もしも記事の執筆にもう少し注力する志をお持ちであれば、そのようにおっしゃられれば周りは安心すると思いますよ。先日の 共同幻想論 での加筆[2]にあたっては、それなりに思うところはあったのではないですか? --Su-no-G 2010年3月11日 (木) 09:35 (UTC)[返信]

  コメント Wikipedia:コメント依頼/Yassie 20100301でも述べましたが、私は記事執筆以外の貢献もあり得るとは思っております。記事執筆をする人でないと発言権がないとも思いません。しかしながら繰り返しになりますが、記事執筆の経験が多いほうが運用系の議論への参加に際してはウィキペディアの本質を見失わずにすむと思いますので、少なくとも記事執筆を多少心がけ続けて頂ければと思います。また、他者からご自分の参加姿勢について何らかの意見を貰った際には、出来るだけ善意にとって頂きたく思います。何か忠告を受けたときにコメント依頼を提出したり、「少し言われ過ぎの様な気がしました」などと反応したりするのは、今後ご自身に忠告してくれる人を劇的に減らしている行為だということはご理解頂きたいと思います。--ろう(Law soma) D C 2010年3月11日 (木) 10:33 (UTC)[返信]

  コメント記事執筆以外でも貢献できるという意見には賛成です。編集合戦になった場合などには編集を行っていないからこその仲裁もできるでしょうし、また出典原理主義者(出典に固執するあまり編集しずらい状況を創出する利用者のこと)が登場した場合の出典探しのような作業も重要だと思います。ただYassie氏の述べる通り百科事典を編集するのを趣旨とする共同作業空間ですので、雑草取りであっても編集を中心に行動すれば問題は少なくなるかなと思います。編集作業を行っていなければ編集に関する議論に参加しても説得力に欠けますので(中国語が出来ないのに漢字の意味は何となく分かるぞと中国語記事の翻訳方法の議論をするようなもの)、是非編集作業にも加わり議論の活性化を図っていただきたく思います。最後に印象論で相手をコメント依頼とした今回の行動には問題があると指摘されてもやむを得ないかなと判断しています。印象論ではなく相手の発言意向を十分にした上で反応すべきであったかと…この点をご理解すれば今後に同様の問題は発生しないと期待しております。--Yonoemon 2010年3月12日 (金) 09:21 (UTC)[返信]

  コメントWikipediaは百科事典を作る場所であって、誰がルールを正確に理解しているかを競い合うことを目的とする場ではありませんし、ルール違反の摘発の腕を競う場でもありません。山本山さんにぶつけられた「あなたは何をしにWikipediaに来たのですか?」という問いは、そこに尽きるんじゃないでしょうか。

一般論として「Wikipediaでは記事の執筆が本質なので、それをやらん奴は偉そうなことを言うな」みたいなYassieさんの言い方は言葉が過ぎるかなと思います。Wikipediaの枠組みは、いろんな立場で編集活動に参加することを許容しています。百科事典作成のプロジェクトにおいて、執筆が本筋であることは確かですが、だからといって執筆比率を根拠に発言を抑圧して良いことにはならんでしょう。ただ、参加へのスタンスの違いがディスコミュニケーションの大きな原因になることは、留意したいところです。

個人的な経験として某所で削除主義系の人と長~い議論をしたことがあるのですが、肝心なところが中々噛み合わない。何でだろうと思って、その相手の履歴を調べたら、既に出来上がった英語記事の翻訳と、雑草取りと、Wikipedia-ノート系の議論しかやっていない編集者で、記事を自分で執筆したり他者と共同して記事を組み上げていくと言うことを一切やったことが無い人でした。それを見て、ようやく納得したのですが、要するにその人は自分で記事を書く人たちが何を考えているのかが分かっていないのです。だから、Wikipediaの各種ルールやガイドラインを一種のゲーム感覚で振り回し、あちこちの記事を削除して回ることに何の疑問も抱いてなかったのです。一方、既存の記事にも糞みたいなスタブから高度に完成された記事まで様々なレベルがある中で、「この記事はあのあたりの出典で補強したほうが良さそうだ」だとか、「○×さんを引っ張り込んで、あのあたりを書いてもらおう」だとか、「今は文献は揃わないけど、ここまで書いておけば将来の加筆見込みはありそう」だとか、「当面、育ちそうには無いけれど、変な方向に進まないようにだけ注意しておこう」だとか、いろいろ考えながら執筆活動に参加している人からみたら、ルールを振りかざす削除系原理主義者は迷惑この上無いのです。その立場からすると、「執筆もろくにしないのに、ルールを振りかざして口を挟む編集者」にYassieさんが毒を吐く気持ちは、十分に分かります。(毒の吐き方には、まったく共感できませんけれど。)これは、どちらが正しいという話ではなくて、参加のスタンスが異なるので不理解が発生するということです。そこを、認識しないことには議論は先に進みません。

山本山さんの投稿記録からは、各種の議論に熱中された御様子が窺われますが、ルールを振りかざすことに熱心なあまり、個々の記事を作り上げることをそれなりに考えていらっしゃる方々の気持ちを無視したところは無かったのか、今一度考えていただきたいの です。繰り返しますがWikipediaは百科事典を作る場所であって、誰がルールを正確に理解しているのかは副次的な問題です。記事を良くするために行う筈の議論が、どこかでルール解釈の正当性を争うこと自体を目的にしていませんでしょうか?それでも仲裁や議論の腕が良ければ、そういう人はコミュニティーの中で重宝されるはずです。しかし、あれだけいろいろな議論に首を突っ込んだ挙句に、「あなたは何をしにWikipediaに来たのですか?」と問われたいうことは、すなわち仲裁屋としても統率屋としても不適格だという宣告がなされたと解釈されるのが妥当かと思われます。これも、考慮ください。

私はその昔、ノート:吉本隆明で山本山さんと接近遭遇しました。当時の私は、吉本隆明を批判している資料の裏付けが薄いなと思ったので、興味を抱いていた話題でもあったことからノートで議論しながら資料を探してみようかと思いました。ところが、「吉本信者」を自認する山本山さんはそれを「吉本隆明を貶める記述を書くための底意ある行為」と取り、私を非難するようになりました。そのときの私の抱いた印象は、「いったん思い込むと、他が見えなくなる性向の人だな」です。あちこちで、議論を長引かせている原因として、そのようなことも考慮いただければと思います。あのときも誤解を解こうにも取り付く島も無い状態であり、私にも記事に固執する理由が無かったことと、何よりもそういうことに時間を使うことが心底馬鹿馬鹿しく思えたので、その議論からは撤退して、以後はなるべく山本山さんとの接触を避けるようにしてきました。今回は良い機会ですので、以上を書き留めておきます。--おーた 2010年3月12日 (金) 14:07 (UTC)[返信]

(コメント)なんてゆーかなあ(深いため息をつきつつ)。Wikipediaの現状は全くもって理想的なものではありませんし、不愉快な点も多々あります。しかしその中で立場が異なるひとと妥協をしつつ「記事を充実させることを重視する」てのが、まともなウィキペディアンの唯一の正しい姿勢だろうと思います。その上で、時として伏してお願いをすることもあるだろうし、うまく煽って誰かが持っている情報を記述してもらうってのもありだろうし、思わず励起されちゃって自ら書くってのもありだろう。削除主義とかって、そういう「誰かが持っている情報を引き出す」ってのと真っ向対立することなんですよ。不完全な情報であっても有害でなければ置いといてかまわないし、その不完全な情報に惹起されて誰かがうまくまとめてくれるかもしれないじゃないすか。そのあたりの上手な引き出し方がわからないままに削除主義に走るやつは迷惑でしかありません。そして、その手の削除主義に走るやつの大半は、たいして記事を書いておらず、であるがゆえにそういう方向に突っ走れるのだろうと、おれは諦めています。山本山815さんの実年齢がおいくつくらいなのか存じ上げませんが、少なくともあと10年くらいは一般社会で修行をしてそれから戻ってくるくらいがちょうどいいんじゃないでしょうか。幾多の議論で対立してたような気がするんですが、おれはもううんざりしてます。山本山815さんががんばる項目は、どんだけ痩せても放置したろ、とか思うくらいにうんざりしています。--Nekosuki600 2010年3月12日 (金) 16:32 (UTC)[返信]

つけたしなんだけどさあ。山本山さんは自らを「包摂主義者」だと自認しておられるようなんですが、包摂主義って山本山さんの姿勢とは真っ向対立する思想なんじゃないの? なんで自分が包摂主義者だと思ったのか、もうそこらへんからおれには理解できなかったりします。--Nekosuki600 2010年3月12日 (金) 16:34 (UTC)[返信]

  コメント確かに皆さんのおっしゃる通り、自らは記事を書くことなく他人の編集に対しルールを重視するあまり摩擦を起こす利用者は存在しますね(そういう私も現在「某鉄道局」の改名案件で遭遇中)。ルールとは刑法のように杓子定規のように考える法律とは異なり伸び縮みする物差しのようなものであるべきでして、それを厳格に適用する利用者が増えれば増えるほど、加筆しても削除され、改名しようにもエンドレス議論になり改名できない…とWikipediaはその存在意義を自ら小さくしていものです。「記事を充実させる」という本質を忘れ、ルール解釈ゲームに走ったり、感情のもつれからコメント依頼という報復行為に対し、Yassie氏も過去にも同様の利用者から誹謗中傷された経験がおありなので、今回の削除原理主義的な発想に多少強い口調になったのであろうと想像しています。…と方向性はまとまっているようなのでそろそろご自身のコメンをしてはいかがでしょうか?--Yonoemon 2010年3月13日 (土) 03:36 (UTC)[返信]

  コメント被依頼者のコメントです。 みなさんのたくさんのコメント、ありがとうございました。 みなさんの主旨は、おーた氏が書かれた「ルールを振りかざすことに熱心なあまり、個々の記事を作り上げることをそれなりに考えていらっしゃる方々の気持ちを無視したところは無かったのか、今一度考えていただきたい」ということではないか(もしくはそれに尽きる)と思われいました。 私自身その言葉も含めてみなさまの文章を読み、自らの言動を省み修正する点は多々あるな、と率直に思われいました。 みなさんのコメントに感謝しております。 --山本山815 2010年3月13日 (土) 09:26 (UTC)--修正山本山815 2010年3月22日 (月) 05:03 (UTC)[返信]

  コメント山本山815さんが議論に関わる件はご自身に知見がある場合と伺えますので記事の執筆回数が少ないというのは発言を妨げる理由にはならないと思います。しかし、発言の姿勢には問題があるような気がします。問題のひとつは他の利用者ページへの書き込みの多さです。利用者ページは自宅のようなもので、公民館で議論をして家に帰ったらドンドンとドアをノックされ注意や議論を吹っ掛けられたらうんざりするでしょう。必要な場合もあるでしょうが相手には逃げ場がないのですからほどほどにして引き下がるべきであると思います。--みや1229 2010年3月13日 (土) 11:38 (UTC)[返信]

  コメント 議論をとりまとめる為の活動に専念という利用方法はあると思いますが、依頼文でまで「かつて意見対立のあった方々から、当時ではなく、今回の機会でもって促される形でのコメント依頼に少し疑問もあったのですが」というように相手を責めてどうするのですか?「相手の意見をとりあえずうんうん、と理解してみる」事ができないのであれば、議論を進行させているのではなく論破が趣味になっているのだと自己理解してください。相手に言われたことは、いわれる度に、ごく一部でもいいから受け入れてください。最後に、被依頼者コメントで「多々あると思われる」とまたどこか他人事として済ませる雰囲気が漂っていますよ。真摯なコメント者さんたちは感謝を求めているわけはありません。今回の一件で、被依頼者さんがどのような方向性をお持ちになったのか聞ければ幸いですし、コメント者は全員がそれを知りたいのだと思います。--Springtide 2010年3月19日 (金) 05:42 (UTC)[返信]

  コメント 被依頼者のコメントです。 コメントありがとうございました。 「論破が趣味になっている」という意見は、今回過去の自分の議論を読み返してその通りかもしれない、と思われいました。 修正する必要があると内省しました。 今後は議論をするにしても、記事を充実する方向で考えなければならない、と思っています。--山本山815 2010年3月20日 (土) 04:33 (UTC)--修正山本山815 2010年3月22日 (月) 05:03 (UTC)[返信]

◆既にCloseの雰囲気ただようコメント依頼に、蛇足でコメントするのも若干気が引けるのですが、どうしてもひとつだけ気になることがあるので指摘させていただきたく。
私も他人に講義できるほど日本語が上手ではないのですが、「思われます(した)」という表現はお止めになられては?と思います。「つい口に出る「微妙」な日本語(濱田秀彦著、ソフトバンククリエイティブ、2008年)」という書籍がありまして、一部はwebでも閲覧できる[3]のですが、ここにあるとおり、「思われます」というのは「主語がぼやけた」表現ですよね。Springtideさんもおっしゃってますが、「どこか他人事として済ませる雰囲気が漂っています」というのは、こういう部分にも表れているのではないでしょうか。
Springtideさんのコメントの直後で、このような言い回しをされるというのは、よほど無自覚であろうと考えます(わざとやっている、とは思いません。もしそうならば、相手を煙に巻こうとしている、焦点をぼかしたまま適当にごまかしているということであって、糾弾されてしかるべきでしょう)。そうした、話し方や語彙の選択などにも、今後は気を使っていただければと思います。-- いすか (talk/wikimail/contributions) 2010年3月21日 (日) 02:30 (UTC)[返信]
ご指摘があった部分は修正いたしました。 ありがとうございました。 みなさんの意見を真摯に受けとめております。 --山本山815 2010年3月22日 (月) 05:03 (UTC)[返信]