Wikipedia:井戸端/subj/過剰脚注・出典について

過剰脚注・出典について 編集

過剰脚注・出典について、皆様にご教示・コメントを頂きたいとおもい投稿させていただきました。(まず、はじめに私は、脚注を注釈と出典に分けて書く立場であることをおことわりしておきます。)記事には検証可能性が求められることから、脚注(注釈・出典)の提示が必要であります。しかし、最近自分が関わっている記事から、一つの疑問をもちました。

これまで、紙面による執筆では、一文に対し脚注(注釈・出典)は、基本一つと学びそれに倣って執筆しようと心がけています。したがって、複数の脚注が並んでいるものには違和感を覚えます。例として、以下に7例あげました。例は、秀逸な記事をもとに作成しました。

例1 ○○○○は、○○○○が○○○○において○○○○であった[1]
例2 ○○○○は、○○○○が○○○○において○○○○であった[注1]
例3 ○○○○は、○○○○が○○○○において○○○○であった[2][注2]
例4 ○○○○は、○○○○の○○を○○指し[3]、○○○○が○○であった[4]
例5 ○○○○は、○○○○の○○[5]を○○指し、○○○○が○○であった[6]
例6 ○○○○は、○○○○が○○○○において○○○○であった[7][8][9]
例7 ○○○○は、○○○○が○○○○において○○○○であった[10][11][12][13][14]

個人的には、例1・例2は個人的には最も望まれるものであり、例3も抵抗はない。例4は文章の長さに応じて納得のできるものです。

どうも違和感があるというか過剰脚注ではと考えてしまうのが、例5の[5]です。「○○○○の○○」を指しているのか「○○」のみをさしているのか混乱を招くので、必要かと考えるところです。必要であれば、例3などの形で説明・解説したほうが読みやすて良いのでは思うところです。また、例6、例7を過剰脚注・出典と考え、紙面では整理し信頼性の高い出典一つか二つのみの表記としています、除去するにはあまりに勿体ないと考えられる時には注釈にて、文献をまとめ解説を行っています。

さて、この過剰脚注・出典についてwikipediaでは、一般的な傾向あるいはルールがあるのでしょうか。今のところWikipedia:脚注過剰ぐらいしか確認できていません。そこで、参考となるガイドライン・議論等があれば、教えていただきたいと思います。どうぞ、よろしくお願いします。--湖紫陽会話2016年12月10日 (土) 16:09 (UTC)[返信]

  コメント湖紫陽さんのお考えとは反対側の文書はあります。Wikipedia:脚注過剰が「私論」であり、Wikipedia:出典を明記するはガイドラインですから、優先順位はWikipedia:出典を明記するの方が高いといえるでしょう。

同一の記述に複数の出典を設定することが検証可能性や中立的な観点の維持や向上に結び付くことがあります。同等の内容の複数の出典を追加する場合には、読者の参考になりやすいように入手の容易な情報源を選択することも検討してみることもよいかもしれません。同等の内容の複数の出典が過度に多数に及ぶような場合や記述の対象が検証の容易な周知の事実である場合には、出典の表示も記述内容に見合った規模になるよう出典の精選を検討するといった配慮が必要ですが、このような場合にも検証可能性や中立的な観点を損ねることがあってはなりません。列挙された多すぎる出典をやむを得ず除去するときにも、見た目だけで判断せず文献を実際に読んで、記述の検証可能性や中立的な観点を低下させることがないということを確認した上で慎重に行うべきです。信頼できる情報源にあたって出典が設定される過程には相当の努力が払われていることを尊重しなければなりません。 — Wikipedia:出典を明記する、三大方針との兼ね合い
  • このへんからいくと、執筆者が自ら出典の数を抑制することは構わないと思いますが、他の執筆者が示した出典を数が多いというような理由で減らすべきではない、ということになるかなと思います。
  • 実際のところ、例6、7あたりを「過剰だ」と考える方がいることは私も承知しています。そこらへんは過去の様々な議論でも明らかです。が、私は例6や7のようなやり方を行います。私は「過剰だ」「減らすべきだ」と考えないからです。
例1 ■■の○○○○は、□□□□である[10][11][12][13][14]。○○○○は、○○○○が○○○○において○○○○であった[10][11][12]。○○○○は△△でもある[12]。○○○○は☆☆でもある[15]
参考文献 10 『■■学辞典』
11 『○○○○の全て』
12 『○○○○における□□□□』
13 『世界の□□□□』
14 「□□□□についての論文」
15 ★★新聞A月B日付記事「☆☆が発見される」

これらによって、その情報が、○○○○について語る上で重要で基本的でどんな文献でも書かれるような事柄なのか、それともマニアックな話なのか、どういう文脈で登場する情報なのか、そこらへんが間接的に示されるかなあ、と考えています。

また、もっと低次元の話として、10、11、12、13、14と5文献が出典として確保できた場合に、どれを示してどれを割愛するのかの取捨選択ができないなあと感じるからです。検証ルートが複数あって困ることはない、というふうにも思っています。

これはWikipedia:中立的な観点釣り合いのとれた重みづけの考え方も取り入れていると思っています。

もう一つの場合はこうです。

出典16 □□□□は○○○○の一種である。
出典17 ○○○○の一種である□□□□は赤い。
出典18 □□□□は赤から赤褐色である。
出典19 ○○○○の一種である□□□□は最大50cmぐらいになる。
出典20 □□□□はふつう、20cmから40cmぐらいで、赤くて、硬い。
記事A1 □□□□は○○○○の一種である[16][17][19]。色は赤[17][18]ないし赤褐色[18]。大きさは20cmから40cmぐらいで[20]、大きいものでは50cm[19]。硬い[20]
記事A2 □□□□は○○○○の一種である。色は赤ないし赤褐色。大きさは20cmから40cmぐらいで、大きいものでは50cm。硬い。[16][17][18][19][20]

私はA1型とA2型のどちらにもすることがあります。その記事の出来栄えとして「秀逸」クラスを念頭にしているのか、そこまでではないと考えているのかとか、A1型のほうが正確だけどちょっと読みにくいという人がいるとか、A2型のほうが読みやすそうだとか。(例文はずいぶん単純ですが、実文献・記事はもっと複雑で長大です。)以前は精確性を重視してA1型を多用していましたが、最近は「読みやすさ」を少し意識するようになって、A2型にすることが増えています。A2型の場合、厳密には、出典18を検証しても「大きさや硬さ」については言及がないわけですから、ちょっと不義理だよなあとも思っているのですが。「私論」とはいえ、「脚注が多すぎるとか、文中にやたら挿入されていると、ちょっと読みづらい」という意見は、まあそれもそうなんだよねー、と思うところもあります。

ここらへんはルールとか方針とかがあってそうしているというわけではなく、個人的な経験則でやっています。--柒月例祭会話2016年12月10日 (土) 17:48 (UTC)[返信]

  柒月例祭さん、早速ありがとうございます。直接ご意見を伺おうと思っていたところだったので、大変うれしい限りです。さて、出典を明記することが基本となることは、仰る通りです。ただ、その点をはねのけてとの考えて、Wikipedia:脚注過剰に準ずるべしとの考えはないことをはじめに示しておきます。
  • さて、かつては、私も㭍月例祭さんのおっしゃるような形で、紙面にての執筆でも「記事A1」のような形での書き方を好んでいました。しかし、実際いくつかの出典を並べて一つの文章を説明してしまうと、出典が実際表現しているという文意がそれぞれ違う場合があり、実際出典とさせていただいた文献の執筆者達より、「そのような意図で書いたものではない」とのお叱りを受けたことがあります。つまり、言葉は同じであっても文章となると文脈などから文意が変わり、必ずしも同じことを語っているとは言えない危険性が高い場合がある。
  • そのようなご教示を受けてから、複数の出典による情報を一つの文章にまとめてしまうのを避け、ある事柄による、記事については
○○○○の一種である□□□□は最大50cmぐらいになる[19]。□□□□は赤から赤褐色である[18]
と、1文章に1出典とし、並べるものを好んで使う傾向にあります。一文に対する1出典は記事と出典の関係が明確であり、検証もしやすいと思います。
  • 個人的にどうも違和感があるのが、記事A2
□□□□は○○○○の一種である。色は赤ないし赤褐色。大きさは20cmから40cmぐらいで、大きいものでは50cm。硬い。[16][17][18][19][20]
となると、それぞれの出典が記事A2のどこの部分を説明しているのか、あるいは全ての出典が記事A2のすべてを説明したのかがわからないという難点がある。どちらもあり得るだろうけど、出典をもたない単なる通りすがり読者は記事A2とこの5つの出典との関係を解明する手段はないため、複数の出典は、「出典を明記する」の本来の目的・役割が返って薄れてしまうのではと考えているところです。
  • まとめられた一つの文章が中立的観点に相応しい文章となっているのかなあ・・と思うところがあり、中立的観点に相応しいものとするのは、㭍月例祭さんの例1を少々改変させて頂けば以下のように
■■の○○○○は、□□□□である[1]。○○○○は、○○○○が○○○○において○○○○であった[2]。○○○○は△△でもある[3]。○○○○は☆☆でもある[4]
とした方が、それぞれの出典が何を示しているか明確で検証もしやすい。また、文意を間違えた文章の作成の危険性も少ないのではと考えるところです・・・(あくまで個人的な見解です)。
  • まあ、複数の出典から一文にまとめるより、複数の出典から一文に対し一出典の「文章」を作成するほうが、出典の明記、読みやすさにおいて良いのではと思っているところです。ただ、あくまで経験により導かれている個人的なやり方にすぎないわけなので、人にこうすべしとの考えは全くはないので、一個人の考え程度に見ていただくとうれしいのですが・・・。--湖紫陽会話2016年12月10日 (土) 19:35 (UTC)[返信]
一つ思ったのは、文章の流れを自然にしようと思ったとき、「■■の○○○○は、□□□□である[1]。○○○○は、○○○○が○○○○において○○○○であった[2]。○○○○は△△でもある[1]。○○○○は☆☆でもある[2]」みたいに同じ脚注が何度も繰り返しついてしまう可能性があります。それでは何だか読みづらいので、自分はある程度まとまった文章の末尾にまとめて脚注を付けるようにしています。ただ、正確性に欠けるという指摘は確かですから、迷うところではあります。さて、実際に出典過剰として問題になるのは、一つの事実を表すのに多数の出典を付記することになると思います。出典ごとに異なる事実を表しているのなら、出典の数が問題になることはないと自分は思います。--有足魚会話2016年12月11日 (日) 01:41 (UTC)[返信]
  コメント 標題については「脚注の配置の可読性」だけでなく「脚注の内容」からも判断する必要があるため、一概にどうとは言い切れない問題だと思いますが、Wikipedia:脚注過剰の想定する事例は、有足魚氏の仰っている「同一の対象に対する複数の出典の提示」と、もうひとつは「既出の事柄に対する出典の繰り返し」かと思われます。ですので、上で提示されているような「複数出典をもとに一文を構成した場合の大量の出典」の例は、おそらくWikipedia:脚注過剰には反していないと思います。
柒月例祭氏が提示なさった「もう一つの場合」に関しては、別視点から見ると少し厄介な事例になります。すなわち、記事A2型の脚注の挿入の方法は、目下のところ確実な合意を得られていない、というところです。Help:脚注#スタイルと用法にある『脚注は多くの場合、一つの文を説明対象にします。この場合は、句点(。)の後でなく前に脚注リンクを置きます』というのは、4年前の井戸端での議論を発端としたHelp‐ノート:脚注/過去ログ2#『脚注リンクは句点(。)の後でなく前に置きます。』の補完で改定されたものであり、もともとは単に『脚注リンクは句点(。)の後でなく前に置きます』でした。この時の井戸端の議論のほうは「複数の文に対する出典の示し方として、句点の後に脚注を挿入するのは是か非か」という議題で始まっており、これに対する結論も「このような方法は現状使用されているが、確実な合意は特にない」と、(おそらく当時の議論参加者としては)妥協ぐらいのレベルで落ち着いたのではないかと推測しております。
以上の点から考えますと、記事A2型は本文そのものは読みやすいが、内容の検証をするときに「どの出典がどの部分にあたるのか不明瞭」のほかに、「この出典群がどこまでの文を対象にしているかが不明瞭」という問題を少なからず含むことになるかと思います。
もし出典16〜20をもとに記述をするならば、(自分としては)形式的には記事A1型を採用しつつ、出典の指定を減らすことになるかと思います。出典が百科事典や辞典でなければ、それぞれの出典や出典からの引用にはそれぞれの主題があるはずです。上の出典16〜20でいえば、述語に注目して、下のように整理できるかと思います。
番号 主題 内容
出典16 カテゴライズ □□□□は○○○○の一種である。
出典17 ○○○○の一種である□□□□は赤い。
出典18 □□□□は赤から赤褐色である。
出典19 大きさ ○○○○の一種である□□□□は最大50cmぐらいになる。
出典20 硬さ(・大きさ・色) □□□□はふつう、20cmから40cmぐらいで、赤くて、硬い。
つまり、出典17・19に含まれる「○○○○の一種である」を単なる「□□□□」への修飾語とみなし、出典20は大きさも色も扱っているがここでは硬さの説明に使おう、としても大丈夫ではないかということです。(ここで主題の設定を間違えれば出典元から『「そのような意図で書いたものではない」』と指摘を受けることなりますが。)これを使って記事A1を再構成しますと(若干の文の入れ替えが必要になってしまいましたが)、
記事A1 □□□□は○○○○の一種である[16][17][19]。色は赤[17][18]ないし赤褐色[18]。大きさは20cmから40cmぐらいで[20]、大きいものでは50cm[19]。硬い[20]
記事A1-b □□□□は○○○○の一種である[16]。色は赤ないし赤褐色[17][18]。硬さは硬く、大きさは20cmから40cmぐらいになり[20]、大きいものでは50cm[19]
と、減らそうと思えば減らすことができるかと思います。ただ可読性と引き換えに各出典と記述の対応が元の記事A1よりは曖昧になってしまうため、半ば無理やりな解決策ですが、記事A1型の正確性と記事A2型の可読性を保つ妥協案のひとつになるかと思います。
以上、途中私見を挟みましたが、当初の質問の答えとしましては、脚注のスタイルはたびたび議論の対象になっているようなので、井戸端の過去ログや、Help‐ノート:脚注Help‐ノート:脚注/過去ログ2あたりに参考となる議論があるかもしれません。 --WwLMvm会話) 2016年12月11日 (日) 02:59 (UTC) -- 柒月例祭氏のマークアップが間違っておりました。お詫び申し上げます。 --WwLMvm会話) 2016年12月11日 (日) 03:02 (UTC) -- インデントの修正 --WwLMvm会話) 2016年12月11日 (日) 05:20 (UTC) -- 再修正 --WwLMvm会話2016年12月11日 (日) 06:53 (UTC)[返信]
例5が「時系列で部分的に更改されて来た解説文である」と考えると、
  1. 2010年12月までに、全30戦のうち19回のKOと11回のTKOを記録している[1]
  2. 2014年8月までに、全36戦[2]のうち23回[2]のKOと11回のTKOを記録している[1]
  3. 2016年10月までに、全41戦[3]のうち23回[2]のKOと11回のTKOを記録している[1]
のように元の単一出典から成っていた文章のうち、部分出典を継ぎ足す形で、文中に挿入・更新していくスタイルも多くあるのではないでしょうか。これを文末脚注に統一、となると各出典が何の語句に対する出典なのか、がわかりづらくなってしまい、個人的には逆に不便に感じます。ただ文章を読むだけなら文末以外の脚注付記を嫌う理由も至極当然でしょうけども、それは「記事を調べ物の参考とする際に」著しい問題を引き起こすのではないかな、と。
ここら辺は編集者の個人的な好みもあります部分ですから、「致命的かつ大きな問題を現に引き起こしている可能性」が明らかでないなら個々の編集者の好みで良いのではないかと思います。個別記事でそのような重大な問題があるのでしたら記事ノートで議論した上でローカルルール合意すればよろしいでしょうし。--Nami-ja(凪海) 会話 / 履歴 2016年12月11日 (日) 05:14 (UTC)[返信]

  有足魚さん、WwLMvmさん、コメントありがとうございます。

  • 現在、私が考えている「複数の出典から一文にまとめるより、複数の出典から一文に対し一出典の「文章」を作成するほうが、出典の明記、読みやすさにおいて良いのではと思っている」のは、WwLMvmさんにあげて頂いた「内容の検証をするときに「どの出典がどの部分にあたるのか不明瞭」のほかに、「この出典群がどこまでの文を対象にしているかが不明瞭」という問題」を生んでいるのではと思うところにあります。
  • 先の柒月例祭さんの表をお借りすると、現状の記事では、
記事本文
記事A1 □□□□は○○○○の一種である[16][17][19]。色は赤[17][18]ないし赤褐色[18]。大きさは20cmから40cmぐらいで[20]、大きいものでは50cm[19]。硬い[20]
記事A2 □□□□は○○○○の一種である。色は赤ないし赤褐色。大きさは20cmから40cmぐらいで、大きいものでは50cm。硬い。[16][17][18][19][20]
出典
出典16 □□□□(××××年)**ページ。
出典17 ○○○○(××××年)**ページ。
出典18 ●●●●(××××年)**ページ。
出典19 ■■■■(××××年)**ページ。
出典20 ▽▽▽▽(××××年)**ページ。
となり、現状多数使用されているものでは、以上のように出典(つまり、文献とそのページ)を明記したものが多数となるため、複数の文献による記事とするのであれば、「出典(つまり文献の明記)」のみのものとなるとその記事では、「どの出典がどの部分にあたるのか不明瞭」のほかに、「この出典群がどこまでの文を対象にしているかが不明瞭」という問題が付きまとうことになるのではと思うところです。
したがって、「出典(つまり文献の明記)」のみの場合は、1文に対し一つの「出典(つまり文献の明記)」が適当ではと個人的に思うところです。
  • ただし、出典ではなく、以下のように注釈で示されているのであれば
注釈
注釈16 □□□□は○○○○の一種である。(□□□□(××××年)**ページ。)
注釈17 ○○○○の一種である□□□□は赤い。(○○○○(××××年)**ページ。)
注釈18 □□□□は赤から赤褐色である。(●●●●(××××年)**ページ。)
注釈19 ○○○○の一種である□□□□は最大50cmぐらいになる。(■■■■(××××年)**ページ。)
注釈20 □□□□はふつう、20cmから40cmぐらいで、赤くて、硬い。(▽▽▽▽(××××年)**ページ。)
「注釈」による説明であればその問題も少なくなるのではと思うところです。出典と文の関係は明確であり、その確認も行える。中立的観点からの問題も賄えているといえると思います。出典の明記を果たしているし、文意の間違え(ここで主題の設定を間違えれば出典元から『「そのような意図で書いたものではない」』と指摘を受ける危険性)も少ないものと思います。注釈なのであれば、記事A1、記事A1-b、記事A2どの形でも出典の明記における有効性は果たしていると思うところです。
  • WwLMvmさんからの資料紹介はありがとうございます。これからその議論について確認させていただこうと思います。
ご指摘の『「注釈」による説明』に関しては、注釈と出典を分けなければ既存のテンプレートが使用できます。日本語版では認知されていないのか(、とか言いつつ、他言語版のほうもよくわかりませんが)、Wikipedia:出典テンプレート#出典テンプレートの例にあるような代表的な出典テンプレートのうち{{Cite 判例検索システム}}と{{Cite episode}}を除いたものには、quote引数が実装されており、この引数に文章を指定することで、出典一覧に引用文を表示させることが可能です。({{Citation}}にも内部的には実装されているようなのですが、解説ページには一切記述がないんですよねぇ...)あまりやたらと引用すると著作権関連に抵触する懸念があるので、使用が避けられているのかもしれません。
実際に使用すると[* 1][* 2]、このように脚注欄に表示されます(内容は乳児用液体ミルク 2016年11月24日 (木) 12:14 (UTC) の版より引用)。ダブルクォーテーションで囲まれた部分が引用部分です。
  1. ^ 乳及び乳製品の成分規格等に関する省令”. 厚生労働省. 2016年10月16日閲覧。 “この省令において「調製粉乳」とは、生乳、牛乳若しくは特別牛乳又はこれらを原料として製造した食品を加工し、又は主要原料とし、これに乳幼児に必要な栄養素を加え粉末状にしたものをいう。”
  2. ^ お客さまからのご質問 | 東日本大震災への取り組みについて”. 森永乳業. 2016年10月19日閲覧。 “現在の法律では液状の育児用ミルクは「乳児用のミルク」として規格基準が設けられていないため製造・販売はできません。”
以上、ご参考までに。 --WwLMvm会話2016年12月11日 (日) 06:53 (UTC)[返信]
  Nami-ja(凪海)さん、WwLMvmさんコメントありがとうございます。
Nami-ja(凪海)さん、のお話の通り、例5における部分出典の利用は、語句・データの説明については確かに有効な手段といえ、無理に取り払う必要もないともいえるようにみえます。確かに、これは、バランスと編集者の好みに関わるものともいえるようですね。
WwLMvmさん、紹介してくださった過去ログを斜め読みさせていただきましたが、容量も多く、内容が濃いため理解に時間を要しそうです。じっくり確認しようと思っているところです。また、Wikipedia:出典テンプレート#出典テンプレートの例におけるquote引数については、今回初めて知ることができました。ありがとうございました。--湖紫陽会話2016年12月11日 (日) 11:02 (UTC).[返信]
  コメント 一寸話題からはずれますが、脚注の内容如何に関わらず括弧が幾つも並んで可読性を下げているような場合(例6・例7)は、{{Refnest}}あるいは{{Sfnm}}を利用して取敢えず一つに纏めることは出来ます。--mit freundlichem Gruß LudwigSKDiskussion/Beiträge2016年12月12日 (月) 01:26 (UTC)[返信]
特にWwLMvmさんへ)すみません、「…[1]。」と「…。[1]」の話は、ここではひとまず気にしないでください。上で私が例に出したのが悪いのですが。私としては、上のA2は句読点の前後の問題を示そうとして出したものではなく、A2で「…。[1]」型になっているのは単なるミスです。「…50cm。硬い。[16][17][18][19][20]」ではなく「…50cm。硬い[16][17][18][19][20]。」ということにしてください。
要は、「出典は段落単位」でまとめて示し、その位置は「一番最後の句読点の直前」としています。
他の方々へ)この場合、個々の出典が段落内のどの記述を裏付けているのか、その範囲が不明になってしまうという欠陥があることはおっしゃる通りです。この例で言うと、16-20の5件の出典を全て検証しないと、段落全体の裏が取れないということになってしまいます。
私の考えとしては、そういう「どの範囲が担保されているか」というのは、結局どこまでも付きまとうことだと思うんですよね。たとえば「花は赤い[1]。」という文章に、誰かが出典を示さずに加筆して「花は大きく赤い[1]。」としちゃったあとでは、[1]が裏付けている範囲が不明確になる。過去の履歴を遡って差分をいちいち確認すれば、それはある程度判別できるとは言え、ふつうの読者はそこまではしないでしょう。(むしろそれをやるのは一部の執筆者だけだと思うんですよね。)結局、出典と範囲の問題はどこかで割り切らないとキリがない。これは技術的な問題と、共同作業であるがゆえの避けられないことだと思うんですよね。
私は検証可能性の面での精確さと、通読したときの読みやすさを天秤にかけて、「どちらもほどほどに」というつもりで、最近はこういうスタイルにしているのですが、逆に言えば精確さも読みやすさもどちらも欠陥があるんですよね。
LudwigSKさんがご紹介された用法は、たしかに「読みやすさ」の改善には効果的ですね。(そのぶんソースが読みにくくなりますが。うーん。)--柒月例祭会話2016年12月12日 (月) 07:12 (UTC)[返信]
出典と本文の対応を厳密にすることと、可読性を保つことを両立させることは難しいことであるというのはおっしゃる通りだと思います。これはウィキテキストに何らかのブレイクスルーがない限り解決しないと思います。理想を言えば、出典番号の上にカーソルを持っていくと、その出典による記述がハイライトされるような仕組みがあれば、refタグの位置をまとめて配置しても分かりやすくなりますし、複数の出典でひとつの自然な文章を作ることが容易になります。もしかしたら今でもできるかもしれませんが、執筆者の負担になるようなやり方(ソースが煩雑になるなど)では普及しないでしょう。--有足魚会話2016年12月12日 (月) 07:45 (UTC)[返信]
  皆さま貴重なご意見、議論及びシステムの紹介ありがとうございます。
  • 記事の執筆に、検証可能性、中立的観点などからの出典の明記の必要性から、複数の出典の明記が行われるものと思われます。「どの範囲が担保されているか」という問題(つまり、「どの出典がどの部分にあたるのか不明瞭」のほかに、「この出典群がどこまでの文を対象にしているかが不明瞭」という問題が付きまとう)ということを質より量を採用することにより、本来の目的である「検証可能性」、「中立的観点」などに対し曇りガラスをかけたものとなりえないかな・・・と思う所となります。(ただ、その問題はやり方次第で賄えるとは思えることは、上述の通りですが・・・)。
  • 記事の執筆及び可読性からのバランスなどから、一概に一定のやり方が決められている様子はないのかな・・と思う所です。また、この件についての緊急性が求められないことから、現状詳細なガイドラインがないのかなとも思う所です。(・・・私も、あくまで個人的考えにすぎないと思っていることから、規則化などを求めているわけではありません。)--湖紫陽会話) 2016年12月12日 (月) 09:19 (UTC)誤字訂正 --湖紫陽会話2016年12月12日 (月) 10:17 (UTC)[返信]
あくまで個人的な印象ですが、一文にたくさん(5個以上とか)出典の脚注がついてたら、「これはかなり信頼できる」と思うよりも「これは情報の合成をやらかしてるな」と身構えることが多いです。一般論で言えば、サーベイで一文にこんなゴテゴテ出典が付くようなことはちょっと考えにくい。ただ、ウィキペディアという特殊な場を踏まえた場合、ここに挙げられるように妥当だと思えるようなケースもあるから難しいのですが、まあ、いずれにしてもたくさん付いてれば、信頼性が高い証拠になるかといえば、そうとは言い切れないということで。--EULE会話2016年12月12日 (月) 10:12 (UTC)[返信]
そこらへんも含めて、主題の性格にもよるのではないでしょうか。政治とか社会問題とかゴシップとか、現在進行形で世間を賑わしているような話題や論争があるテーマの場合には、出典がやたらいっぱいついてるのは胡散臭い感じになるなあというふうには私も思います。逆に堅いテーマの場合には、出典が複数あることは信頼できるように感じますし、大きなテーマの場合には出典が1つしか無いと不安に思います。たとえば「科学とは○○である[1]。」みたいなのとか。
EULEさんがおっしゃる「サーベイ」が何を念頭に置いているのかは私はよくわかりませんが、それなりの権威を背負っている特定の個人(や団体)によって行われるものと、どこの誰だかわからん不特定多数が寄ってたかって作業するのでは、「ゴテゴテつける」ことの意義は変わって当然と思います。もちろん、EULEさんが全否定しているわけではないことはわかりますし、私も全肯定するわけでもないのですけれど。--柒月例祭会話2016年12月12日 (月) 13:47 (UTC)[返信]
  少し感じた点があったので、コメントさせていただきます。
  • 柒月例祭さんのコメントを一概に否定する考えは全くないのですが、「堅いテーマの場合には、出典が複数あることは信頼できるように感じますし、大きなテーマの場合には出典が1つしか無いと不安に思います。たとえば「科学とは○○である[1]。」みたいなのとか。」については、どうかなあと思ってしまうところです。
  • 定義づけが困難とされている「歴史」や「文化」について、例えば、「文化とは○○である[1][2][3]」などとの一文がひょこんとあらわれれば、「えっ、ホントなの?」と思い、疑念をもってしまいます。個人的は、「**は、文化とは●●であるとしており[1]、++は、文化を■■と説明づけている[2]。また@@は、文化を○○と定義している[3]」などの文章の方が信頼性が高い説明であると思う所です。(ただ、EULEさんのコメントが必ずしも私の考えと同じであるかといえばそれはわかりませんが・・・)。
  • しかし、柒月例祭さんのコメントのような場合も十分あり得ると思うので、何とも言い難いところとなるかもしれません。--湖紫陽会話2016年12月12日 (月) 14:28 (UTC)[返信]
ケースバイケースだと思いますが、主題の性格ではなく、あくまで出典の使い方ですかね。複数出典は以下の4つのパターンにできます。
  1. 出典間に情報の差異がある
    1. 対象の記述に対して共通点が多い(出典が5つある内、4つの出典にはあるが、1つの出典にはない情報がある) ・・・①
    2. 対象の記述に対して共通点が少ない(出典が5つある内、1つの出典にしかない情報がある) ・・・②
  2. 出典間に情報の差異がない
    1. 出典の権威に差異がある ・・・③
    2. 出典の権威に差異はない ・・・④
①のパターン
そもそも例外の1つの出典を使う必要はない。だから、普通この場合は、それぞれが対象の記述に対して情報が欠けている出典を束ねて、最大公約数的な記述をしている場合と推定される。この場合、個々の情報源に対し、何故、その情報が欠けているのかという検討が必要で、妥当な場合もあれば不当な場合もある。不適当な場合は、湖紫陽氏が言うように、その情報は別口として分けて記述するのが妥当。
②のパターン
限りなく情報の合成と疑われる。個人的に複数出典の場合、一番多いと思うパターン。この場合の適切な方法も、分けて記述すること。
③のパターン
多少、表現上の差異があるにしても、まったく内容に差異がないなら、それは原典があると推測するべきであり、その場合、権威が高いものが原典である蓋然性が高い。つまり、孫引きをしている可能性があり、特定の一派の考えを数に置いて権威付けしてしまう恐れがある。だから、権威が高いものに限定するべきだし、逆に権威が低いなら除去すべき。仮に残す権威が高いものが原典でなくとも、それのみにすることは、孫引きの問題に比して不利益がない。ただ、例外として主題と権威の高い出典自体が近い場合に、自己言及などを避ける目的で、子や孫を併記するのは妥当だと思います。
④のパターン
妥当な可能性が多い。前提としては③と同じで原典がある可能性があるが、例えば、新規性の高い分野で明示的な権威が無いとか、あるいは専門書では当たり前のこととして特に記述されていないから、初学者や専門外向けの新書を用いることで独自研究でないことを強調したい場合に用いるのであれば妥当だろう(ただ、それでも3つか4つで十分だとは思う)。
例えば、熱帯魚を編集されましたが、①の観点に照らせば観賞用か否かが重要でしょう。そこはさすが柒月例祭氏であって、実際、観賞用の観点を設けられているけど、氏以外で同じ材料で同じことができる人がどれだけいるかといえば、断言はできないでしょう。結局、私は柒月例祭氏を知っているからその複数出典に一定の信頼を置けるけど、知らない人の場合には結局、情報源を確認するしかなく、極めて属人的な信頼性で、出典の数は信頼性に何の担保もならないんです。
ただ、その熱帯魚でも③の問題は起こっていて、世界大百科事典とマイペディアは、共に平凡社であり、マイペディアは世界大百科事典からの引用が多いんです(だから、似てるんです)。まあ、熱帯魚や事典間の権威程度なら、そんなに大きな問題は無いでしょうけれども、でも例えば観賞魚や淡水魚で揉めた場合に、出典数はこっちが多いみたいな論述がどういうことになるかお分かりいただけるかと思います。
以上の問題は当然のことながら出典数が2つ3つでもありえる話です。が、それに対して5つ以上だと劇的に信頼性が上がるかといえばそんなことはなく、むしろ多いが故に問題を大きくする可能性があるという話です。また、「出典が多いほど信頼性が高い」という考えを否定するつもりは毛頭なくて、ただ、それはその記事全体に使われている出典の数で図る話であって、一文にどれだけ出典が多いかは別問題です。--EULE会話2016年12月13日 (火) 13:40 (UTC)[返信]
  返信 褒められたような、怒られたような、複雑な気分です。。それはそれとして、確かにご指摘のうち、平凡社の事典2種の件は、あんまりよくないですね。うん。EULEさんのように「出典がたくさんついていると(これは怪しいと)身構える」というのは、私としてはちょっとショックなんですが、そういう見方もあるという意味では勉強になりました。
これまた無益な感想文なのですが、私は「アメリカ文学」について執筆しようと思ったら、アメリカ文学に関する全ての本をかき集めて(全てつったって現実的な限界はあるのですが)、全部読んで、それから書きたい派なんですけど、そこまでやってから出典をどれか1つだけに絞れと言われると、そこで悩んでしまう。それは私にとっては無駄な時間と労力であり、だったら同じこと書いてたのは全部列記しちゃえ的な感じはあります。それを見づらいと言われると、うーん、まあ、そう、まあ・・・そうね。うーん、という感じ。教えていただいたRefnestを使う方法は、(本質的ではないかもですが)当座の見た目を確保するという点では有用だなあと思った次第です。
少し(だいぶ)議論を戻してしまうのですが、Wikipedia:脚注過剰と私が示したWikipedia:出典を明記するの一節について。
「出典を明記する」では、複数の出典を示すことの意義を重視しつつも、「同等の内容の複数の出典が過度」ならば「精選を検討」「やむを得ず除去」を認めており、絶対否定しているわけではありません。ただその際には「見た目だけで判断せず文献を実際に読」んでからにしろ、と規定しています。熱帯魚の場合には、EULEさんはまさしく実際に読んだ上でおっしゃっているわけですから、(ノートでの合意形成を経るとかの過程はあるかもしれませんが)しっかりした根拠を述べた上で出典を減らすということは駄目ではありませんよね。
それに比べると、Wikipedia:脚注過剰の内容は、私はいかがなものかと思います。(だから私論なんですけども。)
この文書は、「多くの注釈は見た目が悪い」「読者を混乱させる」「編集の支障」と、内容に関係なく外形だけで邪魔だと決めつけています。そして「読みづらいと検証可能性が損なわれる」と主張しますが、私にはどうしてそういう帰結になるのかさっぱりわかりません。
そして、過剰な脚注を整理する方法と称して、情報源を実際に読むことをしないまま、外形的な判断で6つを3つに減らせとか、古い注釈は除去しろとか、一次資料があれば二次資料は不要だとか、私にはメチャクチャだと思えます。
WP:REPCITEあたりも、賛否はあるにせよ、「一長一短」ぐらいの評価までで、一方的に片方が正しく、もう一方は「やり過ぎ」と言うほどではないでしょう。
EULEさんや湖紫陽さんのように、誠実に出典や注釈検証に取り組んでいる方が、個別具体的に問題を指摘しながら精選を検討したり、執筆の際にスリム化に気を配るというのは、悪いことではない、というより、見習うべきことだなあと思いました。
湖紫陽さんが最初に示したうち、例5あたりなんですが、情報がたくさんあって全部盛り込みたいときに、こうなりがちです。思い切ってその情報のいくつかを注釈送りにしてしまうというのも、ひとつの解決策だなあと思いました。付加的/詳細な情報を削って大意のみに絞ることで、文章そのものが読みやすくなるということと、「[1]」の数が減って見やすくなるという利点がありますね。(きちんと本文で説明すべきという意見の人もいるでしょうけど。)--柒月例祭会話2016年12月15日 (木) 14:49 (UTC)[返信]

  インデントを戻します。皆さま、貴重なご意見・コメントありがとうございます。

  • 始めの「過剰脚注・出典について」の題目がどうもよくなかったかなと・・と思う所です。「一文に対する複数の出典明記について」などとした方が良かったかもしれません。
  • 私の考えに、WP:REPCITEWikipedia:脚注過剰についての考え方が良いとの考えは持ってはいません。
  • 今回、私は、一文に多数の出典がついていることは、余計だとし、出典の除去すべしと考えているわけではなく、一文に多数の出典がついている場合は、情報の合成があり得るので、各々出典が説明してる内容を別口の文にて分割した方が良いのでは・・・・と思っているところです。
  • 現在、私は、EULEさんによる4つのパターンの説明はにある、「出典の使い方」および「「出典が多いほど信頼性が高い」という考えを否定するつもりは毛頭なくて、ただ、それはその記事全体に使われている出典の数で図る話であって、一文にどれだけ出典が多いかは別問題」とする考えは納得いくものがあり、自分の考えに沿うものです。
  • しかし、一文に対し、多数の出典の明記については、柒月例祭さん、 Nami-ja(凪海)さん、WwLMvmさんさんのコメントにあるように、その利用の仕方により、十分あり得るし、問題はないものと思います。(かつては自分も、このやり方を好んで使用していた立場だったので・・・)
  • 過去にも「出典の明記」の議論は多数あるものの、多数の出典の明記についてガイドラインとしての望まれるやり方が詳細に示されていないといことは、一定のやり方にすべしとする必要性がないということを示すもので、状況に応じてそのやり方を考えて行えば良いということになるのかなと思ったところです。--湖紫陽会話2016年12月15日 (木) 17:05 (UTC)[返信]
  まとめに入っている話題に遅れて投稿することをお許し下さい。
Wikipedia:脚注過剰#どうやって過剰な脚注を整理するかの最後の行「文全体や段落が、特定の出典を引くだけで十分であるように文章を構築し、一文が複数の情報源を必要とするような文章構成は避けてください。」を守れば、出典が何処にかかっているかの問題は発生しないように思います。
また、ここまでの議論は修正にかかるコストを無視しています。出典が1個の場合に比較して2個なら入手するコスト・確認するコストは2倍。3個なら3倍、4個なら4倍、……。残念ながら出典の付いている文が全て出典の内容を正しく反映しているとは限りません。出典の内容を歪曲しているケース(故意の場合だけでなく、善意の人がする歪曲の場合もある)、また、独自研究を潜りこませているケースなど。これらの歪曲・独自研究を修正したい除去したいと思った時、出典が多いほど入手・確認は困難になります。誰もが全ての出典に容易にアクセスできるわけではありません。後から来る人のことを考慮すると1文に付ける出典の数は程々にすべきだと思います。--ワーナー成増会話2016年12月16日 (金) 09:43 (UTC)[返信]
  ワーナー成増さんコメントありがとうございます。個人的な意見に近似する考えと思います(もちろん、一文に対し、多数の出典の明記の使用を一概にダメとは言えず、ケースバイケースであると思いますが・・・・)。
ところで、今回の皆さんのご意見・コメントとは別に、かつて出典についての議論に2015年9月に(Wikipedia:井戸端/subj/一つの出典が複数の文に掛かる場合の脚注の示し方)を確認しました。論点の相違はありましたが、どのように出典明記するべきかについての考えは大変参考となるものがありました。「一定のやり方にすべしとする必要性がないということを示すもので、」あり、また、Ks aka 98さんのコメントにあった「これはつまり、記事を書く人は記事の内容についてある程度詳しかったり情報源を探したり読んだりしているのと同じように、出典の扱いや記事の内容との関係に口を出すなら、出典の扱い方や示し方、多少は記事の主題や分野の中身や傾向について一定の知識を持ってないとあかんよね、ってことだと思うんです。:細かめの注と、まとめての注を考えるときは、そういうせめぎあいがあると思うんですね。細かめの注と、まとめての注を考えるときは、そういうせめぎあいがあると思うんですね。」とのコメントに至るものなのかなと考えているところです。--湖紫陽会話2016年12月16日 (金) 16:24 (UTC)[返信]