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概要編集

トルコ南西部、メンデレス川(古名:マイアンドロス川)の支流モルシヌス川上流にあるアフロディシアスは、紀元前3世紀に築かれたアフロディーテ神殿とその1世紀後に築かれた都市からなっている。アフロディシアスの富は周辺にある大理石を輸出することでもたらされ、彫刻家によって作成された美術作品もその助けとなった。都市の大通りは都市機能を司るいくつもの大型建造物が立ち並び、そこには寺院、劇場、アゴラ、2つの浴場が含まれている。世界遺産としては城壁で囲まれていたアフロディシアス考古遺跡と遺跡の北東にある大理石採石場の二つから構成されている。[1]

構成資産
ID 名称 所在 面積
1519-1 アフロディシアス考古遺跡 アイディン州カラカス 71.52ha
1519-2 古代大理石採石場群 アイディン州カラカス 107.17ha

アフロディシアス考古遺跡編集

 現在も人が住むゲイレ(Geyre)から東へ約1kmにかつての城壁が今も残っており、農地が城壁を囲むように存在している。1961年以来行われている発掘調査により多くの建造物と芸術作品が発見され、その多くは遺跡の博物館で展示されている。南北を貫く大通りを中心に、古代ギリシャ・ローマの伝統に則って碁盤目状に区画が配置されているが、アフロディーテ神殿、アウグストゥス祈念堂(SebasteionまたはAugsteum)、競技場、劇場は碁盤目から外れている。

市壁編集

アフロディーテ神殿編集

四面門(Tetrapylon)編集

劇場編集

北のアゴラ編集

議会場(Bouleuterion)編集

彫刻家たちの仕事場編集

南のアゴラ編集

アゴラの門編集

ハドリアヌス浴場編集

バシリカ編集

アウグストゥス祈念堂(Sebasteion)編集

競技場編集

古代大理石採石場群編集

 

登録基準編集

この世界遺産は世界遺産登録基準における以下の基準を満たしたと見なされ、登録がなされた(以下の基準は世界遺産センター公表の登録基準からの翻訳、引用である)。

  • (2) ある期間を通じてまたはある文化圏において、建築、技術、記念碑的芸術、都市計画、景観デザインの発展に関し、人類の価値の重要な交流を示すもの。
  • (3) 現存するまたは消滅した文化的伝統または文明の、唯一のまたは少なくとも稀な証拠。
  • (4) 人類の歴史上重要な時代を例証する建築様式、建築物群、技術の集積または景観の優れた例。
  • (6) 顕著で普遍的な意義を有する出来事、現存する伝統、思想、信仰または芸術的、文学的作品と直接にまたは明白に関連するもの(この基準は他の基準と組み合わせて用いるのが望ましいと世界遺産委員会は考えている)。

歴史編集

アフロディシアスの歴史は銅器時代に遡る。本格的に都市ができ始めたのは紀元前2世紀で、メンデレス川沿いの急激な都市化の一部と見られている。それに前後してそれ以前に存在したアフロディーテ神殿の周りに碁盤目状の街割りが形成されていった。後に女神アフロディーテへの関心を背景に、スッラユリウス・カエサル、初代ローマ皇帝アウグストゥスなどによってローマ帝国との関係性が高まっていき、その結果ローマ元老院から税の免除を許可され、近隣で産出される大理石を用いた美術・彫刻の名声で知られるようになる。[1]

アフロディシアスのアフロディーテの重要性は帝政ローマから東ローマ帝国時代まで引き継がれ、キリスト教が国教として受容された後も500年ごろまで異端の神殿として維持され続けた。7世紀はじめ、アフロディシアスは地震に見舞われ、その被害の補修は部分的なものしか行われなかった。その後街はスタヴロポリスと名を変え、1078年までは東ローマ帝国領であり続ける。[1]

11世紀から13世紀にかけて、メンドロス川沿いの都市はセルジューク朝に征服され、その一環としてアフロディシアスの住民も急激に都市を離れていった。14世紀にはメンテセのベイリクの支配下となり都市は完全に放棄される。1413年にオスマン帝国メフメト2世がメンテセに取って代わり、15-16世紀の間に本来の肥沃な大地を求めてゲイレの村がアフロディシアスの遺跡の上に築かれた。1957年の地震で地滑りが発生したことをうけて集落が現在の位置に移動したことで、遺跡が発見され現在に至っている。[1]

脚注編集

出典編集

  1. ^ a b c d Centre, UNESCO World Heritage. “Aphrodisias” (英語). UNESCO World Heritage Centre. 2019年7月12日閲覧。