アンフィテアトロ広場
アンフィテアトロ広場 (Piazza dell'Anfiteatro) は、イタリア共和国トスカーナ州ルッカにある広場のひとつ。その楕円形の形状から、ローマ時代の円形闘技場の面影を今に伝えるイタリアでも珍しい広場である[1][2]。ルッカ市街の壁内、北部に位置し周囲をアンフィテアトロ通りが囲み、4つある門で広場とつながっている。
アリーナであった広場と、その外周(観客席の部分[3])にある住居で構成される。
周辺にはサン・フレディアーノ聖堂、サン・ピエトロ・ソマルディ教会が建つ。南南東の方角に建つグイニージの塔の頂上からはその楕円形の様子がよく見える[4]。
パノラマ
編集歴史
編集アンフィテアトロ広場の起源は1世紀末のローマ時代に遡る。この時期ルッカはローマの植民都市・自治都市としてローマの文明を受容、それに伴って当時のルッカ市壁外に建設された円形闘技場がその起源である[6][7][8]。
各地の円形闘技場は財政の窮乏や、勢力が強まったキリスト教からの批判により徐々に下火となり、326年コンスタンティヌス1世の勅令で廃止を決定される[9]。やがて使用されなくなった円形闘技場であるが、6世紀の東ゴート、8世紀のランゴバルドによるルッカ統治時代は、要塞として遺構が再利用された[6]。ちなみに、このような要塞への転用という利用形態は実はイタリアでは結構多く、各地で少なくとも24例が確認されている[10]。
10世紀になり神聖ローマ帝国の下でルッカがトスカーナ辺境伯領の首都になると経済も発展し人口も増加し、その人口を養うために要塞から住居への転用が進む。12世紀には旧円形闘技場の周囲に街区が建設され(現在のアンフィテアトロ通りやその周辺住居)、この建設や近所の教会改築に部材の転用がさらに進んだ[11]。この時期はよい部材を近所の教会へ転用することで段々と元の円形闘技場の姿は薄くなり、逆に新規に住居が継ぎ足されていくこととなる[10][12][13]。なお、古代ローマを起源に持つ都市では、円形闘技場の遺構の住居などへの転用は中世においては一般的であった[14]。
16世紀には公共倉庫として塩などの貯蔵庫になり[6]、1715年には南西部にサン・ツィータ礼拝堂(Oratorio di S.Zita)という宗教施設も発生した[15][16]。牢獄として使われた時期もあったらしい[17]。
このように継接ぎ利用が進んだ結果、19世紀に再開発をする頃にはすでにアリーナの楕円は跡形もなくなっていた[6][18]。1830年から1838年にかけての再開発でロレンツォ・ノットリーニ主導で[19]アリーナ部の楕円形が復元された[20]。しかし翌年1839年に市場ができ再びアリーナ部は占拠されることになる[21]。その後1936年、1972年の2度に渡る市場の移転でようやく現在のような状態になった[20]。
入り口
編集周囲の通りから広場内に到る入り口は4つ存在する。円形闘技場の建設当初、東西に門があったといわれるが、西にあったはずの門は上記の歴史の中で建造物の中に取り込まれてしまったと見られ現存していない。これに対して東の入り口は「当初のまま保存」されているという。他の3方、南北と新しい西の入り口は先述のロレンツォ・ノットリーニにより新設されたものである[12]。
下の2枚の図の地面から天井までの高さを比べると、当初からのサイズを留める東門(図.A)は西門(図.B)に比べて天井が低いことがわかる。これは広場の敷地全体がローマ期と比べて平均2.7メートルほど底上げされたせいであり、すなわちローマ期の東門は今より2.7メートルほど天井が高かったと考えればよい[22]。
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図.A 当初から残る東門より広場を望む
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図.B 新しい西門より広場を望む
脚注
編集- ^ Il Quarto Mare 2010, "唯一無二"
- ^ 池上英洋『イタリア 24の都市の物語』光文社、2010年、71頁。ISBN 978-4-334-03599-0。
- ^ 黒田 1997, p. 246
- ^ 黒田 2006, p. 111
- ^ 黒田 2006, pp. 72–73
- ^ a b c d 黒田 1999, p. 301
- ^ 黒田 (1999, p. 305).異説があるが、紀元前90または紀元前89年に自治都市(Municipium)に昇格。
- ^ 12世紀から13世紀の市壁拡張工事の結果、現在は壁内に収まっている。黒田 1999, pp. 302–303
- ^ 黒田 1996, p. 203.もっともその後も一部では存続したという。
- ^ a b 黒田 1996, p. 198
- ^ 黒田 1999, p. 304
- ^ a b 黒田 1999, p. 300
- ^ 黒田 1999, p. 302-303.12-13世紀に壁内に統合された結果人口が増加し、観客席部分に建てられた住居の高層化が始まる。塔が建っていた時期もある。
- ^ 黒田 1997, p. 245
- ^ 黒田 1999, pp. 302–303
- ^ 黒田 1996, 年表の「Lucca」部.そこへ到るサン・ツィータ通りという街路も存在している。
- ^ Il Quarto Mare 2010, "牢獄として使われていたのを"
- ^ 黒田 1999, p. 302.とはいえ闘技場壁面は18世紀までは現在よりも保存状態がよかったともいわれる。
- ^ Il Quarto Mare 2010, "今の形に整備し直したのが、前回のノットリーニ水道を設計したロレンツォ・ノットリーニ"
- ^ a b 黒田 1999, p. 302
- ^ この市場(Mercato)は広場の名称にもなった。
- この公共市場開設に伴って市場広場(Piazza del Mercato)の名がつけられた。黒田 1999, p. 302
- 2013年現在でもこのPiazza del Mercatoの名を正式名称として扱う資料もある。地球の歩き方編集室 2012, ルッカの地図
- ^ 黒田 2006, p. 74
参考文献
編集- 黒田泰介「再利用された古代ローマ円形闘技場遺構の機能による分類とその要塞化について : イタリア都市における古代ローマ円形闘技場遺構の再利用の様態に関する研究 その1」『日本建築学会計画系論文集』、社団法人日本建築学会、195-203頁、1996年。ISSN 13404210。 NAID 110004654272。 NCID AN10438548 。
- 黒田泰介「古代ローマ円形闘技場遺構の住居化について : イタリア都市における古代ローマ円形闘技場遺構の再利用の様態に関する研究 その2」『日本建築学会計画系論文集』、社団法人日本建築学会、245-251頁、1997年。ISSN 13404210。 NAID 110004654650。 NCID AN10438548 。
- 黒田泰介「都市形成史的観点からみた円形闘技場遺構の住居化の特質について : ルッカの古代ローマ円形闘技場遺構の住居化に関する研究 その1」『日本建築学会計画系論文集』、社団法人日本建築学会、299-306頁、1999年。ISSN 13404210。 NAID 110004655414。 NCID AN10438548 。
- 黒田泰介「ルッカ一八三八年 古代ローマ円形闘技場遺構の再生」『シリーズ都市の血肉』第1巻、編集出版組織体アセテート、2006年。ISBN 4-902539-11-X。
- Il Quarto Mare『アンフィテアトロ広場』三洋ハウス、2010年 。
- 地球の歩き方編集室『地球の歩き方 A12 (フィレンツェとトスカーナ)』ダイヤモンド社、2012年、203-215頁。ISBN 978-4-478-04253-3。
外部リンク
編集座標: 北緯43度50分43.27秒 東経10度30分22.80秒 / 北緯43.8453528度 東経10.5063333度