クリミアの戦い (1944年)

クリミアの戦いは、1944年4月から5月にかけての、クリミア半島をめぐる枢軸国軍とソ連軍の戦闘である。この地域は1941年から1942年にかけての戦闘で枢軸国に占領されていたが、その後ソ連軍が巻き返しに成功し、その過程で1944年にクリミアの奪回に成功した。ロシア語ではクリミア攻勢作戦 (ロシア語: Крымская наступательная операция)と呼ばれる。

背景編集

 1942年11月に始まったソ連軍の反攻(ウラヌス作戦)により、ドイツ第6軍と第4装甲軍の大部分はスターリングラードに包囲されてしまったが、同時に東部戦線南翼には大穴があいてしまい、コーカサスに進撃していたA軍集団(第1装甲軍第17軍)の背後を遮断される恐れがあった。この為、ヒトラーの承認のもとに、ドイツ軍は12月末にコーカサスからの総撤退を決めたが、ヒトラーの指示により、冬の難局を乗り切ったあとのコーカサス再征服の足場として、第17軍はタマン半島を保持することを命じられた。第17軍のタマン半島への撤退は、1943年2月に完了した。(クバン橋頭堡)

 1943年7月のクルスク突出部の奪取を狙ったドイツ軍の攻勢(ツィタデレ作戦)は失敗し、その後のソ連軍の反攻で、ウクライナではドイツ軍の後退が相次いだ。9月にヒトラーは、第17軍(6月より司令官エルヴィン・イェーネッケ工兵大将)のクリミアへの撤収を認め、第17軍はおおきな損害を出すことなく10月にはクリミアへ撤収した。

 クリミアの保持については、イオン・アントネスク(ルーマニア王国首相兼国軍艘司令官),エーリヒ・フォン・マンシュタイン元帥(南方軍集団司令官)、クライスト元帥(A軍集団司令官)、イェーネッケ工兵大将、クルト・ツァイツラー上級大将(陸軍参謀総長)のいずれもが放棄すべきとしたが、ヒトラーはルーマニアの油田防衛とトルコへの政治的悪影響を主張し、絶対死守を命じた。

戦いの推移編集

 ソ連第4ウクライナ方面軍(トルブーヒン大将)は、4月8日にペレコープ地峡を攻撃し、防衛軍は初日はなんとかもちこたえたが、二日目にはルーマニア軍が崩壊し始めた。その日の夜、イェーネッケはヒトラーの承認無しに、クリミアにある全軍のグナイゼナウ線[1]への撤退命令を出した[2]。第17軍はグナイゼナウ線でも持ちこたえれず、4月末にはセヴァストポリへ押し込まれてしまった。4月29日に総統大本営でヒトラーに状況報告したイェーネッケはクリミアの放棄と第17軍のOKHへの直属を強く主張したため、ヒトラーに解任されて後に軍法会議へ送られた。後任の第17軍司令官には、増援兵力をもらえればセヴァストポリを維持できるとした第5軍団アルメンディンガー歩兵大将が起用された。

 しかし1942年の攻囲戦で破壊された要塞設備の修復は不十分で、両軍の戦力差は圧倒的であり、さらに第17軍の補給路はソ連軍の海空からの攻撃に常時晒されている状況のもとで、ソ連軍の重囲を持ちこたえるのは荷が重すぎた。5月6日にソ連軍は要塞に対して総攻撃を開始し、5月7日には要塞全域を一望できる要地のセパン高地を占領した。5月8日には、第17軍の損害は大きく要塞の保持は不可能であるのは明らかだったので、その夜ヒトラーは撤退を許可した。5月9日~12日まで海路によるコンスタンツァへの撤収作戦が行われたが、5月第1週目にセヴァストポリにいた兵員64,700名のうち、約4割にあたる26,700名は撤収できず海岸に置き去りにされ[3]、5月13日にセヴァストポリは陥落した。アルメンディンガーも、セヴァストポリ失陥の責任を問われて軍法会議へと送られた。

脚注編集

  1. ^ 半島南部のシンフェロポリを守る東西にひかれた防衛線
  2. ^ Ziemke & Bauer III 2013, 6627.
  3. ^ Ziemke & Bauer III 2013, 6679.

参考文献編集

  • Glantz, David M.; House, Jonathan (1995). When Titans Clashed. University Press of Kansas. ISBN 0-7006-0717-X 
  • Forczyk, Robert (2014). Where the Iron Crosses Grow - The Crimea 1941-1944. Osprey Publishing. ISBN 978-1782006251 


独ソ戦