グーピル商会
グーピル商会(グーピルしょうかい、Goupil & Cie)は、19世紀のフランスで活動した美術商会社である。本店はパリにあった。ロンドン、ブリュッセル、ハーグ、ベルリン、ウィーン、さらにはニューヨーク、オーストラリアの支店を通じて国際的な絵画・彫刻取引を手がけた。その業務拡大を助けたのが、パリの北郊アニエール=シュル=セーヌで1869年に活動を始めた「アトリエ・フォトグラフィックス」工房であった。創業者はアドルフ・グーピル(1806年 - 1893年)。彼の娘マリーの夫はフランスの画家ジャン=レオン・ジェロームである。

歴史編集
もとになった店は、1829年にアドルフ・グーピルによって設立された商会であるが、1850年に再編して「グーピル商会」となった[1]。経営陣(パートナー)と在任期間は次のとおり。
- アドルフ・グーピル 1850年-1884年
- アルフレッド・マング 1850年-1856年
- レオン・グーピル 1854年-1855年
- レオン・ブッソ 1856年-1884年
- フィンセント・ファン・ゴッホ 1861年-1872年(画家フィンセント・ファン・ゴッホの伯父)
- アルベール・グーピル 1872年-1884年
- レネ・ヴァラドン 1878年-1884年
1861年までは、商会では印刷物の仕入れ、販売、編集を行っていた。しかし、安価な美術品への中産階級の需要に応えることを目的に、パリ郊外の工房で熟練技術者を雇い、エングレービング、エッチング、写真技術等による絵画の大量複製を行うようになった。グーピル商会の複製を通じて、ジャン=レオン・ジェロームといった画家は一躍知られるようになった[2]。画家フィンセントの弟テオドルス・ファン・ゴッホが入社した頃、業務は絵画の取引に広がり、1872年には写真やヘリオグラフなどの画像技術にも進出した。
フィンセント・ファン・ゴッホ(画家の伯父)は、1872年病気で経営陣から引退したが、1878年までは出資持分を保有した。その後をアドルフ・グーピルの息子アルベール・グーピルが継いだ。1878年、フィンセント・ファン・ゴッホの出資持分が引き揚げられ、同じ年、レネ・ヴァラドンが加入した。この時から、会社はグーピル創業家とその義理の息子たちであるレオン・ブッソ、レネ・ヴァラドンの完全な支配下に入った。1884年、グーピル創業家が引退すると、会社は改組してブッソ・ヴァラドン商会となった。しかし3年後の1887年5月25日-27日、株式は競売にかけられた。
ブッソとヴァラドンが撤退した後は、マンツィとモーリス・ジョワイヤンが会社を引き継いだ。
本店及び支店編集
- パリ本店
- シャプタール通り店(事務所及び店舗)
- モンマルトル大通り店
- 最初にアドルフ・グーピルが商売を始めた場所であり、事務所がシャプタール通り店に移ってからは純粋な店舗機能のみとなった。1881年から、テオドルス・ファン・ゴッホがこの店を任されている。
- オペラ広場店
- オールド・マスターの画家たちの作品及び当時のサロンの作品を展示していた、メインの販売ルーム。
- ニューヨーク支店(ブロードウェイ)
- レオン・グーピルが1846年に開いた。
- ハーグ支店
- フィンセント・ファン・ゴッホ(画家の伯父)により1830年代にスパイ通りに開かれ、1861年にグーピル商会に合併された際にプラーツ通りに移転した。
- ブリュッセル支店
- 1865年、H・W・ファン・ゴッホによって開かれ、彼の引退後はV・シュミットにより経営された。
- ロンドン支店
- アーネスト・ガンバートによりサウサンプトン通りに開設され、1875年、グーピル商会がホロウェイ&サンズ社を買収した際にベドフォード通りに移転した[3]。
- ベルリン支店
画家ゴッホとの関わり編集
画家ゴッホの伯父であるフィンセント・ファン・ゴッホ(画家ゴッホから「セント伯父」と呼ばれる)は、1858年にパリに出てシャプタール通りのグーピル商会本店に住み込んだ。1861年、商会の経営陣に加わったが、健康悪化により1872年に引退し、夏はオランダ・ブレダのプリンセンハーフェ、冬は南仏のマントンで暮らすようになった。6年後、彼は出資を引き揚げた。
「セント伯父」には子供がいなかったが、甥たちが後を継いでくれることを期待して、フィンセント(後の画家)を1869年に、その弟テオドルス(テオ)を1873年に入社させた。1876年、甥フィンセントがレオン・ブッソーから解雇されると、株主間のバランスが崩れ、結果としてテオにチャンスが巡ってきた。テオは1878年のパリ万国博覧会のためパリに呼ばれ、そのままパリに残ることになった。1881年から1890年にかけて、テオはモンマルトル通り店の経営を任され、ジャン=バティスト・カミーユ・コロー、シャルル=フランソワ・ドービニーらバルビゾン派を含む1000点近くの絵を売り上げた。クロード・モネ、カミーユ・ピサロら印象派の単独展を開催したほか、エドガー・ドガ、ポール・ゴーギャンにも注目してこれらの画家の絵を販売した[4]。
甥フィンセントは、商会を去った後、画家となることを決意したが、その時絵の勉強に使ったのが、シャルル・バルグがジェロームと協力してグーピル商会から1868年から1873年に出版した『デッサン教本』であった。
脚注編集
- ^ “CHRONOLOGIE des SOCIETES”. 2013年3月15日閲覧。
- ^ Ken Johnson (2001年4月20日). “A Return to the Junction Of Art and Commerce”. New York Times 2013年3月15日閲覧。
- ^ Martin Bailey (1992). Van Gogh in England. London: Barbican Art Gallery. p. 11
- ^ “ART REVIEW; A Return to the Junction Of Art and Commerce”. New York Times. (1999年6月13日) 2013年3月16日閲覧。
外部リンク編集
- Goupil & Cie(フランス語)